カルデロン『人の世は夢』

カルデロン『人の世は夢 サラメアの村長


 スペイン16、17世紀は黄金世紀といわれ、アメリカの征服や高度成長の時代だった。芸術も美術ではエル・グレコ、ベラスケスらが輩出し、文学ではセルバンテスドン・キホーテ」という名作が出版された。劇作家ではロペ・デ・ベガカルデロンという同時代英国のシエイクスピアに匹敵する人たちが活躍した。その戯曲は詩的言葉の朗詠と身体的演技でスペイン古典演劇の黄金期を出現させた。このカルデロンの戯曲を読んでいると私は歌舞伎的だと感じてしまう。森鴎外が翻訳したのも分かる。
「人の世の夢」は時代物だが、アジア的無常観がある。日本では信長時代だが、「人生50年」と詠い死んでいった信長のような人物が主人公だし、仏教的でもあり、中国の「邯鄲の夢」的でもあり、「平家物語」的でもある。父王に岩窟に閉じ込められた王子セヒスムンドは「おれは今、こうして鎖につながれた夢を見ている。ところがな、はるかに楽しく、うれしい思いの夢も見た。人の世とは、何だ?狂気だ。まぼろしだ。影だ。幻影だ。いかなる大きな幸福とても、取るに足りない。人の一生は、まさに夢。夢は所詮が夢なのだ」という。自由とは仏教的執着からの自由だと目覚める。だが復讐を乗り越え、夢のなかの善に目覚めてキリスト教的愛と寛容に再生するのはカトリック的であり、「理性」が永遠不変であり、他は夢というのはプラトン的ともいえようか.
 [サラメアの村長]は歌舞伎でいうと世話物である。農民であるサラメアの村長が娘を国王の軍隊の貴族に汚されたのに対し、国王、貴族、軍隊に一歩も引かず、意地と名誉(面目)のため対決し、娘の恥辱を晴らす。誇りと勇気、慎みと侠気のセリフは助六や幡随院長兵衛、佐倉惣五郎を思わせる。ジヤン・カンは「面目感情が彼の戯曲の原動力で、彼の作品に最も感動的な色彩を与えている」という。(『スペイン文学史文庫クセジュ白水社)この戯曲は動的であり、きっと面白い舞台だったと思う。翻訳も良い。(岩波文庫、高橋正武訳)