目崎徳衛『史伝 後鳥羽院』

目崎徳衛『史伝 後鳥羽院

   歴史家・目崎は、承久の乱(1221年)を弥生以後約千年間続いた西日本優位と公家政権を覆して、以後七百年間の東日本優位の武家政権を実現した「天下分目の合戦」と位置づけている。その敗者で隠岐の島に流罪のまま亡くなった後鳥羽院の評伝である。
文化史上では「新古今集」を編んだ。
  「見渡せば山もとかすむ水無瀬川 夕べは秋と何思ひけむ」
  「われこそは新島守よ隠岐の海の あらき浪風心して吹け」
   政治と文化の後鳥羽院の評価は、極端に分裂しており、近世武家政権では低く、明治維新には大化の改新建武中興とともに、承久の乱は3大義挙とされ、隠岐神社は官幣大社になった。現代では、「王者」は人間後鳥羽の一面に過ぎず、「詩人」としての巨大な文化的存在とみる保田輿重郎や丸谷才一らの評伝がある。「文」と「武」の境界人であり、鎌倉・北条政権に対して、平安朝公家政権の最後の「文化防衛戦争」の天皇という見方である。政治経済的に見れば、守護地頭制による知行地の争奪戦だが。
   目崎(故人なので敬称略)は、歴史家らしく広範な史料を参照しながら丹念に後鳥羽院の60歳の生涯を追っていくが、隠岐流罪で逝去する直前までで目崎が亡くなり、遺著になったのが惜しまれる。
    目崎は、後鳥羽は4歳の幼帝として祖父後白河から天皇に任命されたが、早くも19歳の若さで大上天皇として院政をおこない、その「遊び人間」としてのエネルギーは激しかったと指摘している。和歌管弦から蹴鞠、狩りや武道までこなし、平安最盛期の習礼を整備し公家文化政権に固執した。源頼朝から実朝までの「公武合体」路線まではよかったが、寵愛した歌人でもある実朝暗殺により(第一次世界大戦の引き金となったオーストリア皇太子暗殺のように)北条との武力対決に踏み出す。
   目崎は「新古今集」編纂に多くのページを割いている。後鳥羽により和歌所が作られ「和歌の制度化」が行われ、武士である西行も実朝も「文化転向」を行うほどだった。その側近に藤原俊成、定家、家隆、鴨長明などがいる。定家との確執も書かれている。
   北条氏は、貴族文を破壊する未開文化という差別意識で見られている。北条政権は武力による革命政権であり、ローマ帝国を侵攻したゲルマン族のように、洗練古代文化への野生のアンチテーゼなのだ。貴種という両義性を持つ「源氏」を第二革命で空洞化し、粛清で権力を握る北条氏(時政、政子、義時)は、後鳥羽院の息も根を止めた。
 流罪後の「遠島百首」は、貴族文化の残影と、孤島の庶民と僻地の生態が歌われ、新古今の繊細な内面意識と技巧的本歌取り手法の対極にあると、目崎はいう。和歌的にも王朝和歌と連歌俳諧への変化の境界人として後鳥羽院はいる。(吉川弘文館)