田辺聖子『源氏紙風船』

女性作家と「源氏物語」(その②)

 田辺聖子『源氏紙風船

    「源氏酔い・源氏狂い」と自称する田辺氏のこの本では、恋と愛の専売特許をもつ宝塚歌劇と似通うといい、文章も劇画風(夕顔が物の怪に襲われる場面や源氏が須磨に配流の時暴雨風にあう場面など)もあると指摘している。
    また、女性が愛する衣装やセレモニー、さらにブランド品の愛着など女性でなければ書けない描写を克明にあげているのが面白い。だが、物語後半における内面ドラマの葛藤、錯綜の激しさは外面描写を突きぬけ、作者自身も予測しなかった超越者の歯車にまきこまれてしまう様相を、田辺氏が重要視していると思える。
    「紫の上という女」という章は私には面白かった。藤壺の不倫、不義の子と罪の意識の苦悩とは違い、紫の上による愛の苦悩はその死を招いていく。源氏が紫の上の死により、生きる意欲を失い出家から死を迎えるのは、紫の上が源氏により育てられ作り上げられた女なのに源氏を超えた存在になり、源氏はいつか紫の上を生の拠り所にしていたと田辺氏はいう。美しき人形妻の紫の上が生身の人間になるのは嫉妬であり、「嫉妬は子供のない紫の上が源氏とのあいだに生んだ私生児」という。
    紫の上の嫉妬は、具体的で近代的であり、リアルな内面劇になり、男への怨みがそのまま愛になるという自家撞着で、生命を削るようになる。いかにその苦悩を乗り越えて源氏を愛して死んでいくかが田辺氏の紫の上論にある。
    「源氏という男」では、源氏は心配り、こまやかでまめな気遣いな男であると共にエネルギーにみちた男で、手に入れるのが困難で危ない女性を強引に言い寄る(藤壺六条御息所、朧月夜など)恋の狩人で野暮な人だと田辺氏は見る。
    源氏は生涯悟ることなく、恋の諸わけを知ることなく、無明の煩悩地獄をさまよい、昏きより昏きうちに生をおえてしまうともいう。源氏はかわいげのある、愛すべき青年としてあらわれ、壮年期は自信たっぷりの政治家になり、晩年は痛ましい愚かしさをもつ老人として現れる。そこが田辺氏によればこの物語の興味深いところなのである。(新潮文庫