カロッサ『ドクトル・ビュルゲルの運命』

カロッサ『ドクトル・ビュルゲルの運命』


詩人で医者であるカロッサが、医者の苦悩を描いた小説である。「そうだ、いまわたしの心に一とう近しのは、わたしには救えないことが分かっている望みの絶えた人たちだ」
「おんみら亡き人々よ。病熱の大波がまだおんみらを揺さぶっていたとき 私の奉仕を受けた今は亡き人々のすべてよ、おんみらはいま私の心のなかでどんなに輝きわたることか」と歌う医師ビュルゲルは「治療」(キュア)とともに、治癒(ケア)の心を兼ね備えようとしたために、苦悩と責任を背負わされる。現代の先端医療技術により、専門化が進み、大量な患者を受け持ち、官僚化した病院体制で、過労に虐げられた医師たちには、ドクトル・ビュルゲルの苦悩はもはや古いのだろうか。
病気とは、身体的苦悩であると共に、精神的苦悩でもある。とくに不治の病に冒された人々の苦悩を、自己の良心と責任で引き受けようとすれば、ビュルゲルのように、自殺という破滅に行き着いてしまうかもしれない。「人間をしっかりと掴まえずに、内臓だけを治療すること、それはわたしにはどうしてもできません」というビュルゲルの考えでは、医師に過大な要求をすることになる。先端技術と医の仁術の矛盾。だがどんな医学療法であろうと、治療とは人間同士の相互行為であることには変わりない。その基盤には死という終末の運命を秘めている。いま、延命治療や終末期医療などは、ビュルゲルの苦悩を再生してきているのではないか。
この本は20世紀のゲーテの「若きウェルテルの悩み」だという評価があるという。確かに患者であって肺結核で若くして死んでいくシングルマザーのハンナの運命と、ビュルゲルの悲恋は、そうした見方をしたくなる。だが、私は、あまりにもビュルゲルの病者への苦悩との融合により医師の枠を踏み外し、治療さえ躓かしてしまったのではないかとも読める。医学への無力感が死に到る病により強まり、ビュルゲルを自殺に追いやっていったのではないかとも思う。(岩波文痕、手塚富雄訳)