石牟礼道子『苦海浄土』

石牟礼道子苦海浄土

 水俣病の公式確認から56年慰霊式が5月1日に行われた、水俣病被害者救済法による救済策申請が7月に締め切られる。政治決着という幕引きは再三行われようとしてきたが、司法では福岡高裁は、感覚障害があったのに認定しなかった女性に逆転判決で認定を命じた。他方大阪高裁では、感覚障害のみで水俣病に認定できないと退け判決が割れている。半世紀をえて行政が水俣病と認めたのは3000人に過ぎない。40年前に書かれた石牟礼氏の昭和文学の傑作を福島原発事故で故郷を負われた人々の時代に読み返すと感銘も一層大きい。
 この小説はルポルタージュ様式をとっているが、石牟礼氏の「語り部」のような語り口は、患者の方言によっての心身から声となって、冒頭の山中少年から漁師田上義春、川本輝夫、最後の浜元フミヨまで表現されている。それに医師の診断書の専門カルテ、行政の作文、支援団体のビラなど多様な文体を駆使し、さらに会社と患者との一問一答の交渉場面はドラマの文体で書かれている。私は今回第三部「天の魚」を熟読した。そこには「受難の民」がいかに「自立」しながら、公害企業チッソと死闘を繰り返しながら、救いを求めて「解放の民」に成っていくかの物語として読んだ。水俣からチッソ東京本社社長室への座り込みは、旧約聖書モーセによる「出エジプト記」のような苦難の戦いであった。ここの描写は迫力がある。
 チッソという企業が、有機水銀廃液の海への垂れ流しによる水俣病発症の社会的責任や補償をいかに逃れようとして策動し、逃れられなくなると企業倒産で脅し「国家」に依存しようとするのに対し、患者側は、あくまでも「怨」を人間的言葉で表現し、会社企業に対し、「社長」という個的人間と対等に交渉しょうとする「優しい戦い」には感動する。チッソは企業組織の言葉で語り、患者は水俣方言で普通の生活者の言葉で語る。交渉場面で東大出のエリート企業マンが責任を逃れようとするユダヤ人収容所のアイヒマン的人物として描かれているのも喜劇的とさえ感じてしまう。身体の苦悩を抱える患者側の思想の深ささえ感じる。近代資本主義企業の「罪と罰」の物語を、ドストエフスキーのように書いた小説を日本で始めて持ったといえる。福島原発事故はどのような「罪と罰」の物語を生むだろうか。(河出書房新社「世界文学全集Ⅲ−04」