デュレンマット『失脚/ 巫女の死』

デュレンマット『失脚/巫女の死』

スイスの劇作家・小説家デュレンマットがミステリーとして読まれているのに驚く。劇作家として、その戯曲が日本でも何本か上演されていたからだ。この本は「このミステリーがすごい」2013年版の海外部門第5位になっている。確かに「約束」や「裁判官と死刑執行人」など推理小説も書いている。だが20世紀小説家として、ラテンアメリカの小説家コルタサルの小説に似て、意外性を秘めた人間の不確実性や不条理性と喜劇性を描いた幻想文学者なのである。人間は自分の主観性から脱することが出来ず、世界を完全に認識できず、偶然が支配する社会を手探りで進むしかない。人間が理性に基づき論理的計画・目的を目指しても、「偶然」によって正反対の結果さえもたらしてしまう。この迷宮のような世界の謎解きが、あたかも推理小説のように見えるのだ。
悲劇が偉大なる「運命」によって左右されて、それへの不可知が人間を崩壊させていくのに対して、デュレンマットは「偶然」にみえる不可知、不確実に翻弄されていく喜劇を描こうとしているのではないか。この本に収録されている「故障」ではこう書く。「われわれを脅かしているのはもはや神でも正義でもなく、交響曲第五番のような運命でなくて、交通事故や設計ミスによるダムの決壊、注意散漫な実験助手が引き起こした原爆工場の爆発、調整を誤った人工孵化器なのだ。」こうした「故障の世界」で果たして悲劇物語は成立するのかという。
この「故障」という小説は、カフカの「審判」に匹敵する傑作である。裁判の真理や正義にたいする懐疑なのだ。車の「故障で偶然」泊まった家で退職した裁判官、検事、弁護士、死刑執行人の、裁判ゲームに巻き込まれた繊維関係の営業マンが、次第に上司であった人を殺した犯人にしたげ挙げられていく物語である。喜劇的なのは、犯人に仕立て上げられた営業マンが、次第に自分が上司殺しの英雄になっていくことに快感を持っていく心理で、最後に自己処罰として首吊り自殺をしていくことにある。そこには、正義も罪の意識もなく、公正な裁判も饗宴のような飲み食いの大宴会の酩酊状態のなかで進んでいく。本当に殺人が起こったかも不確実なのである。
「巫女の死」は、ギリシャ悲劇「オイディプス」を陰謀的権力奪取の計画の謎解きからスリルをもった迷宮世界として描き、「失脚」はスターリン時代と見られる党政治局の会議を舞台に、独裁と粛清の恐怖のなかでの権力ゲームが、意外な展開をしていくサスペンスを描いている。どちらも面白かった。訳者の増本浩子氏の解説も詳細であり、デュレンマット理解に役に立つ。(光文社古典新訳文庫、増本浩子訳)