堀有伸『日本的ナルシズム』

堀有伸『日本的ナルシズムの罪』

 新書版だが、深い思索に満ちている。精神科医で、いま福島県南相馬市で精神医療に携わる。
 精神医学からみて、西欧の「エディプス・コンプレクス」と「日本的ナルシズム」を比較すると、どちらも母子の一体感から生じる。エディプスは父の介入、個人自我の確立、他人同士が法や契約で社会を作る「近代的自我」になる。
 一方、日本的ナルシスは、家族の一体感、学校・地域社会のタテ社会、職場との一体感とタテ社会で、現実を見ずに、想像上の自分、他者の一体感(空気を読む)に逃げ込む。堀氏は、分離不安や「甘えの構造」の土居健郎共依存などまで考え、「躁的防衛」まで論じる。
 堀氏は個人だけでなく、日本人の伝統的心性まで踏み込んでいく。加藤周一が日本に体系的絶対論理体系がないと言ったことや、中村元がいう日本人の「現実容認」心性まで考える。さらに藤田省三のいうズルズルべったりの「自虐的世話役」に見られる母子関係のような「想像上の一体感」が、日本的ムラ社会に投影されているという。
 中根千枝『タテ社会人間関係』の分析では、現代日本のナルシズムと「新型うつ」の関係を、ブラック企業と関連づけているのも面白かった。また「ディスチミア親和型」は、メランコリーにも関係しているという。
 私が面白かったのは「原発をめぐる曖昧なナルシズム」という部分である。リスクを避けるナルシス的東電の震災以前の経営体質は、現場判断よりも、本店・官邸・保安院の意思決定を重視していた。閉じた人間関係の「想像上の一体感」を基盤としたナルシスは、自らが負うリスクを最小にし、利益を最大化にするナルシス・ゲームになる。
 飯館村の悲劇は、SPEEDIの予測した放射線状況を、東電が責任を回避するために隠蔽し、避難地区指定が遅れて起こった。東電が現実逃避をして住民の自己責任にしようとしたのだ。
 堀氏が震災後の「反省されず強化されたナルシズム」だというのが「賠償金」問題だ。賠償金格差による住民分断や一体感を壊すことへの嫌悪、訴訟を嫌がる心情によって、一体的ナルシズムがより強められたという堀氏の指摘は鋭い。(新潮新書

レベル『ナチュール』

エマニュエル・レベル『ナチュール』

 フランスの気鋭の音楽学者による「音楽と自然」の関わりを、ルネスサンス期から、現代音楽まで究明しようとした力作である。
 体系的というのでなく、ルーブル美術館のように、ジャンル別に芸術作品を展示するような書き方になっている。アルカディア、庭園,嵐、風景、動物学的間奏曲、風・水・火・土、環境、宇宙という章構成である。
 例えばアルカディアの章では、ヴィヴァルディ「四季」にはソネットがまずあり、芸術は自然の模倣であるという考えが強く示されている。狩りと鳥の囀り、羊飼いとニンフ、特定の場所を排除し、「理想化された自然」が奏でられる。
 庭園の章では、ラモーの音楽はルイ王朝時代の庭園芸術に類似し、混沌たる自然から調和的で整備された庭園の自然が音楽化したとする。四大元素と和声の調和が、ラモーの「うずまき」も人工物にしてしまう。これに対し、ルソーはイギリス式庭園のように「自然」の成長をいかした。
 嵐の章では、ベートーベンの「田園」交響曲が、自然災害の現実味と、心の中の嵐をシンクロさせているという。絵画的描写より感情の表出、自然の崇高さは、ロマン主義につながっていく。
 マラーは「風景を見る必要はないよ。音楽ですべて表現しているから」といった。この言葉はロマン主義音楽を言い表している。シュトラウスアルプス交響曲」は山と森を発見したし、国々を象徴する河は、シューマンライン川」からワグナー「ニーベルングの指輪」に通底している。
 19世紀になると、自然とテクノロジーの関係が全面に出てくる。四大元素を使い、ドビュッシーは水と夢に行くし、ワグナーの「神々の黄昏」はエンディングを火でつつみ、「野獣派」が出てくる。ストラビンスキー「春の祭典」は土と未開が打楽器の多用で表現される。
 20世紀になるとテクノロジーの自然破壊に対して、サウンドスケープと音のエコロジーの音楽が出てくる。他方、電子音響音楽、音響デザイン、録音技術の進歩なども盛んになる。と同時に、生物学、生態学による、植物の復権が、武満徹などに見られる。(アルテスパブリッシング、西久美子訳)

ユゴー『ノートル=ダム・ド・パリ』

ヴィクトル・ユゴーを読む④」
ユゴーノートル=ダム・ド・パリ』)(上)

 15世紀のパリの都市や民衆が生き生きと描かれている。民衆たちが集合した場面から始まり、道化的な法王選出と行列と発展にいたる。枢機卿などのお偉方はちょっとしか出てこない。学生や主婦、娼婦、下層市民、乞食などが生き生きと書かれている。
 下層の任民窟に、劇作家が紛れ込み、乞食などと共に処刑されそうになるが、ジプシー娘エスメラルダに助けられるなどのサスペンスもある。ラブレーのガルガンチュアに近いと思う。
 ユゴーの凄さは、ノートル=ダムの屋上から、中世パリの建築物初め、大学区、市街区、中の島の都市を綿密に書いていくことにある。これを読むと中世パリの生態がよくわかる。
 ユゴーは、中世建築の崇拝者だから、その建築物が崩壊していくことに無念に思っている。第三篇の「パリ鳥瞰」は、何度読んでも、中世パリの景観がよくわかる。建築構築思想なのだ。そこに人々の生活の情念が絡んでくる。劇作家だから、舞台美術は重要である。景観小説なのだ。
 ユゴーは建築を、思想であり、文学であり、絵画であり、音楽だと見做していた。ユゴーは15世紀に発明されたグーテンベルグの印刷術が、建築を滅ぼすとしている。書物が建築を滅ぶすことについては、第5編に詳しく書かれ、ユゴーの思想を十分に主張していて面白い。現代では書物が、ネットによって滅びてゆくとユゴーは書くだろう。
 この小説の主人公たちは、何らかの形で差別された少数の「被差別民」である。
 ノートル=ダムの鐘つき番で聴覚が失われた畸形のカジモト、その育ての親、司祭補佐クロード・フロロ、ジプシー娘エスメラルダなどが、それぞれの「宿命」によって、ドラマを作っていく。上巻は、大衆とそこに生きる都市景観の描写に感心する。(岩波文庫(上)辻昶、松下和則訳)


 

佐藤慎一編『近代中国の思索者たち』

佐藤慎一編『近代中国の思索者たち』 

 19世紀末清朝崩壊期から1949年中華人民共和国成立期にかけての、中国思想界は「百家争鳴」的であり面白い。この本は魏源から毛沢東までの20人の代表的知識人の思想を紹介している。
 編者の佐藤氏は、毛沢東思想の勝利という単線的思想史を否定している。私は逆にこの百家争鳴時代が毛沢東思想に大きな影響を与えていると思う。
 日清戦争の敗北で、日本の明治維新に似た変法運動を担った康有為と梁啓超の思想に、西洋思想と中国思想の相克をいかに超越するかがあらわれている。康の平等=大同思想。梁の停滞史観に対する進化史観とみると、彼らが単なる「近代主義者」というより、中国ナショナルの新儒学主義者であるようにも感じる。
 この時代の大思想家・譚嗣同は、仁=平等と、格致=科学を求め、「仁学」では、エーテル=気一元論を唱えている。孫文三民主義を唱えたが、民主主義者でなく、賢人政治論である。
 皮肉なことに、共産党を設立した陳独秀は、西洋思想の「科学」と「民主」の唱道者だった。佐藤氏は中国共産党中国国民党は、共に抗日の五・四運動から産まれて、ソ連民主集中制を導入した双生児であったと見るのは、面白い。共産思想と新儒学思想は、正反対に見えるが中国固有の変革を目指す点で同じだというのも、はっとさせられる。
 毛沢東の「新民主主義論」によって、後進国である中国は、脆弱なブルジョワジーに代わって労農主体の共産党が、近代を飛び越して社会主義に向かおうとした。だが、資本主義の育成が、近代ナショナリズムを強め、社会主義より国家資本主義に向かう素地をつくった。
 近代中国にダーウィンや、イプセンマルクスが入ると「主観能動性」が重んじられた。中国に自由主義思想は根付かなかった。ただし胡適はイブセンを紹介して個人主義やエゴイズムの重視を主張し、「寛容は自由より重要である」と主張した。改革開放時代になり、胡適の再評価は面白い。(大修館書店)

中野京子『印象派で近代を読む』

中野京子印象派で「近代」を読む』


印象派の本は多い。中野氏の絵画の本はシロウトにも素直に読める。ドガ「エトワール」、ゴッホ「星月夜」などオールカラーのメイン絵画26作品も新書にしては、きれいすぎる。
中野氏の見方は「光を駆使した斬新な描法が映し出したのは、貧富の差を現した近代の闇である」。
印象派といえば、光の美しさであり、モネ「日の出」や、ルノワールシャルパンティエ夫人と子どもたち」のように、ブルジョワの幸福を描いたものも多い。だがエミール・ゾラ印象派の友人であり、そこには貧富格差、人種(反ユダヤ主義)、内乱(リュス「コミューン下のパリの街路」)のようにテロ的な多くの死体の散乱もある。
近代の象徴として、モネ「サン・ラザール駅」が描かれたが、カイユボット「床削り」や、ドガ「カフェにて」の虚無的・虚脱したアベックや、マネ「ナナ」のような娼婦、囲われた女性の闇もある。
モリゾ姉妹のように画家になりたくても女性差別のためになれず、意にそわぬ結婚で「主婦」になってしまう闇もある。モリゾ「揺りかご」は、主婦として生きる悲哀を見事に育児とかさねて描いている。
オペラ座は出会いの場所であるが、男が女をあさる場所でもあった。カサット「オペラ座にて」は、舞台などそっちのけのブルジョワ男性が、双眼鏡で女を捜す姿がえがかれていて、「闇」を感じる。
ドガ「エトワール」もバレーのプリマドンナの美しさを印象派の手法で美しく描くが、背後に隠れるように黒服のパトロンが顔を隠して立っている不気味さが、併存しているのである。
印象派というモダニズムは、ゴッホの「闇」に行き着くのだろうか。印象派の絵画はヨーロッパ世界大戦をのがれ、アメリカに大量に購入されていく。ここにも、印象派の矛盾があらわれている。新しい印象派論が期待される。(NHK出版新書)
 

ユゴー『ライン河幻視紀行』

ヴィクトル・ユゴーを読む③」
ユゴーライン河幻視紀行』

 私はユゴーのこの本を読んでいるとき、ユゴー版の松尾芭蕉奥の細道』だと思った。詩人ユゴー芭蕉と違い、ほとんど詩は書いていない。そのかわりに、伝説や民話が多くある。
 ライン河にこんなに廃墟になった城が多いとは。ローマ時代から、神聖ローマ帝国、30年戦争、ナポレオン侵攻と、ライン河は独仏伊の境だから、盗賊貴族が城を多く築き、それが廃墟になっていく。
ユゴーは、一つ一つ丹念に廃墟を訪ね、履歴を知ろうとする。ファルケンブルグの河畔を歩き、「山、草原、流水、おぼろな緑うっすらとした霧、半眼に開いた猫の目から放たれたような玉虫色の光きらめき」のなかで、ユゴーは褐色と玄武岩の固まりの廃墟を見つける。
 その廃墟の石盤には、武装した騎士と詩があり、騎士には頭がなかった。
その謎ときはともかく、私は芭蕉が何回も戦火を受けた平泉を訪ねて「夏草や兵どもが夢の跡」と詠うのと同じ感性を感じた。
ユゴーは、私はフランス人でなければドイツ人だ、というほどの両国融合の精神をもっていて、このライン紀行を読んでいても、現代EUの精神が感じられる。すでに150年前にユゴーはヨーロッパ人だった。
 ラインの泉から、アーヘン、ザンクト・ゴアール、ロルヒからビンゲン、ハイデルベルクを旅人として歩きながら、ラインを巡る歴史を語り、さらに残された伝説や民話を書き留めていくのが面白い。
 悪魔と修道士の伝説、猫城、鼠城、ローレライ、床屋の村の伝説、鼠の塔の伝説などいずれも面白い。
「美男ペコバンと美女ボールドゥールの物語」は、グローバルな舞台であり、「千夜一夜物語」のようなスケールをもっていて、オリエンタリズムと批判されるかもしれないが、フランス・ロマン主義の幻想の大きさを感じさせる。(岩波文庫榊原晃三編訳)

ユゴー『エルナニ』

ヴィクトル・ユゴーを読む②」
ユゴー『エルナニ』

 ロマン主義は、自由主義でもある。この劇を読むと、シラーの『群盗』を思い出す。エルナニは貴族の子弟だが、国王に父を殺され、山賊になり、反乱を行う。ユゴーのこの戯曲は、ラシーヌコルネイユなどの古典演劇への芸術上の自由の反乱だった。
 古典演劇の牙城であるコメディ・フランセーズで1830年上演の時は、古典派とロマン派が激しい上演妨害を行い、「エルナニ合戦」といわれた。
 古典派に見られる三単一の法則、つまり24時間内という「時の単一」、場所の同一性という「場の単一」、一つの筋で統一される「「筋の単一」をユゴーは総て破っている。
 復古王制の時代の高齢者支配に対するユゴーら20代の若者たちの世代間反乱だった。「エルナニ」には、60歳を過ぎたドン・リュイ公爵が登場し、姪のドニャ・ソルに恋慕して、エルナニとの恋愛・結婚を妨害し、最後に二人を死に追いやる。自分も自刃する。
 この戯曲の面白さは、人間を「単一」と見ていないことだ。美女を巡り三人の男が三角関係になる。だが三人とも性格がかわっていく複数人格の持ち主なのだ。スペイン国王のドン・カルロスは、最初は強権的で娘を拉致までするが、神聖ローマ皇帝に選挙されると、寛大さを取り戻しエルナニと娘の結婚を許す。
 エルナニ自身も、高貴な人格と、山賊としての残忍な暴力性をあわせもつ。老人のドン・リュイ公爵は、貴族の誇りと同時に、権謀術策をおこなうマキャベリストでもある。筋が複雑になるのは当然だ。
 だが、訳者の稲垣直樹氏は、当時パリの民衆が好んだメロドラマの手法がこの戯曲にはみられるという。女主人公に美しく穢れがない女性を配し、彼女のためには命も惜しまない騎士道の男性が配される。たしかに、このエルナニのヒロインであるドニャ・ソルには、あまり個性が感じられなかった。
 復古王制は7月革命で倒されるが、ユゴーは若いときから立憲君主制論者だから、ナポレオン2世や3世に期待していく。近代フランスの政治史の複雑性がよく分かる。だがこの戯曲は中世からルネッサンスへの移行時代の物語である。(岩波文庫、稲垣直樹訳)