マルコム・カウリー『八十路から眺めれば』

マルコム・カウリー『八十路から眺めれば』

老年は悲惨だという本も多い。ボーヴォワールの『老い』は、ペシミスティックな色彩が濃い。カウリーのこの本を読んでいて、私はキケロの『老境について』(岩波文庫吉田正道訳)に近い老年観を感じた。「黄金の老年」という精神的な豊かさを讃える。
カウリーは、ヘミングウエイ、フィッツジェラルド、フォークナーと同世代であり、文芸批評家、編集者、大学教授などで高名であり、1989年に91歳で無くなった。この本は82歳の時書かれている。
カウリーは、80歳からの老いを告げる肉体からのメッセージを16項目挙げていて、ユーモアがあって面白い。例えば片足で立てずズボンをはくのに難渋するとか、先月会った人の名前が思い出せないとか、美人と街ですれ違っても振り返らなくなるなどだ。
老人の自覚の美徳と悪徳も面白い。老年の悪徳は、強欲、乱脈、虚栄などが挙げられている。老人の愉のしみは、怠惰、諦め、次々襲う肉体的、精神的苦しみの克己であり、80歳の画家ゴヤの「まだ勉強中」と詩人イェイツの「邪悪な野生老人」の詩作である。
老いの技術には、老人は大いなる未利用労働資源だとか、老人の知的貧困は物質的貧困と同じ程度に悪であるとか、示唆的な考えが披露されている。カウリーはキケロの書を、老年の自己慰謝の本だと手厳しいが、「黄金の老年」で、仕事でも趣味でも、社会奉仕でも、病気でもそれと闘う発見の過程が、重要だと見ている。だから老人の恐怖は死でなく、単純化された自己におしこめられることと、自律が失われることなのである。
老後の計画は、何らかの仕事の計画が必要で、失われた時を求めて思い出により自己の生涯を完結していく自己同一性の物語を語っていくことだということになる。「昔も今も、これこそが私なのだ」一つの劇、一つの物語化をおこなうように大いに語る。そこにまったく新しいこれまでできなくなかった価値創造が芽生えてくるかもしれない。     
園芸から芸術、趣味の創造は、反対極の怠惰の「遊び」とともに老年を輝かせるとカウリーはいうのだ。カウリーのは,恵まれた老年論だという。下流老人とか介護老人といわれるが、「遊び」があるかぎり黄金の老年は生まれる(草思社文庫、小笠原豊樹訳)。