レーヴィ『溺れるものと救われるもの』

プリーモ・レーヴィ『溺れるものと救われるもの』

    アウシュビッツ生還から40年、自死する1年前(1986年)にイタリア・ユダヤ人作家で化学者のレーヴィが、強制・抹殺収容所の記憶の風化のなか、その苦悩を書き綴った古典的名著である。いまイスラエルパレスチナハマス戦争の最中に読むと、現代の暴力的残酷性が迫って来る。
    レーヴィは、虐殺・虐待を体験した生存者として、「記憶の風化」の危機感を持っていた。若い世代の無理解と誤解、大虐殺はなかったという歴史修正主義イデオロギー、記憶の単純化と断片化を恐れている。ナチス・ドイツの記憶の証人が残らないような記憶抹殺、収容所の真実が広まらないような集団的犯罪、関わった人々の虚偽と自己欺瞞と沈黙をレーヴィは指摘している。
    レーヴィは、加害者ドイツ人は普通の凡庸な人間だが、誤ったナチズム教育を受け、ユダヤ劣等民族視と、自己民族絶対視が虐待を創り出したという。ハンナ・アレーントの「悪の凡庸さ」による虐殺に見合う見方である。デーヴィは歴史の加害者―被害者の二分による「単純化」(「ステレオタイプ」と言っている)を避け、収容所では「灰色の領域」があり、ユダヤ人の選ばれた者が「特別部隊」や「特権」を付与され、協力してガス室虐殺の手助けをしたことを挙げている。慈悲と獣性が同じ人間に共存する。複雑なのは、この協力者も記憶抹殺のため殺されるし、反乱も存在したという。
    生存者は、生き残ったが受けた「恥辱」感は一生続く。またレーヴィは「救われたもの」が他人を犠牲にしてその地位を奪ったエゴイスト、厚顔無恥、「灰色の領域」の協力者という罪責感に、解放されても苦しめられるという。レーヴィが何故自死したのかも不明だが、トラウマから逃れられなかったのかも知れない。
    この本を読むと、抵抗を抑える為か、収容所では権力側の意味のない「無益の暴力」が日々、日常化されていた恐ろしさが描かれている。人権の尊厳を奪う殴打の習慣、道徳的辱め、こうした「いじめ」は、ガス室へ行く前に日常化していた。権力が正当化された暴力は、収容所で拡大されていた。
    レーヴィは、予期しない大虐殺は再び起きる可能性はあるという。虐殺はなくならないという。有益、無益を問わず、「暴力」は目の前にある。もうひとつレーヴィは、ヒトラーのような「美しい言葉」を述べたり、書いたりする者への警戒の必要も述べている、(朝日新聞出版、竹山博英訳)