木下長宏『ミケランジェロ』

ミケランジェロを読む①
木下長宏『ミケランジェロ

 木下氏はミケランジェロを「混沌(カオス)を生きようとした芸術家」という視点で描く。レオナルド・ダ・ビンチを「コスモス」的な理性と、秩序と科学的観察の人とし、ミケランジェロのカオス的考えと比較していて面白い。レオナルドが「鏡」としての絵画(可視)を重視し、ミケランジェロは大理石という石塊(不可視)を彫り刻むことを重んじた。終末観もレオナルドが大洪水という災害で終わるとしたのに、ミケランジェロは聖書の人間の罪での「最後の審判」を重視した。一見「近代」はレオナルド的だが、「ポストモダン」はミケランジェロ的に見える。
 私はシスティーナ礼拝堂を訪ねた時、洞窟のなかに裸体の人間の絡み合う群像に眩暈がした覚えがある。始原の「天地創造」と終末の「最後の審判」が同時に描かれている。富や名誉や地位を持たない裸の人間存在そのものの始原と終末を描く。そこには木下氏がいう「混沌」が描かれている。木下氏によれば、男性像には女性的に、女性像には男性的特徴という「両性混合造形」で人間を描くという。システィーナ礼拝堂の天井画だけでなく、「トント・ドーニ」のマリアも両性具有であり、木下氏は新プラトン主義の影響を見る。
  木下氏はミケランジェロを共和主義者と見ていない。政治的危機にまず逃げ出す「逃亡者」つまりノマドを見ている。悲劇的終末を経験してきた終末観は「ノアの洪水」で、前景の津波から逃れ陸に上がった何百人の人間のひしめきと騒ぎに、子どもを抱きしめる母の絶望の中に希望を見ている人物像が、ミケランジェロの思想だというのに同感した。
  それはキリスト磔刑の後抱きしめるマリアを描いた幾つもの「ピエタ」像に、「受難」をみるミケランジェロ論になる。そこには自分が行ってきた芸術の無力さを木下氏は指摘している。人間の根源的な姿としての「受難」。「殉教」より「受難」の重視。「ロンダーニのピエタ」にそれは見られる。ミケランジェロが老年につくった長い詩にこうある。「私が愛した芸術よ、我が良き日の太陽よ、名声よ、賞賛よ。私が流行させた歌よ。いまでは私は苦役と貧困と老いと孤独に放り出すばかり。おお死よ、私を救い出してくれ、さもなくばみずから死に至らん。」(中公新書