デュビュイ『ドイツ哲学史』

モーリス・デュビュイ『ドイツ哲学史


 フランス哲学教授のドイツ哲学史だから、あまりにもフランス的明晰さでかかれていて、その汎神論的な「宗教的性格」が見事に分析されすぎているが、ナチドイツ時代に捕虜収容所にいただけあって、ドイツ哲学の問題性も小冊子ながら指摘されている好著である。ルターから、ライプニッツ、カント、ヘーゲルから、ショーペンハウワー、ニーテェをえて、20世紀の生の哲学現象学、ハイデッカーの実存哲学、ベンヤミンアドルノ、マルクーゼまで網羅していて、ドイツ哲学の特徴を炙り出している。
デュビュイによると、ドイツにおいて経験論が成功をおさめたことはかつて一度もない。イギリス思想と対照的である。自我の自発性、自我の構築能力、構成能力、創造能力といった「観念」こそ、認識、倫理、行動の哲学で優越の位置を占めている。それはカント、フィヒテヘーゲルから、ニーテェ、ハイデッカーまで貫徹している。生成する活動性や力動性が重んじられ、内から外へと発展する「生」という存在の本質的自発性がある。だから「絶対者」さえ「無限の発展」による絶えざる超越的運動を行い、マックス・シェーラーは「無限の努力」をドイツ思想の不変の要素と考えているとデュビュイはいう。だから、自然のなかの合理計算や技術的制御による機械論は否定的に見られる。
もう一つはダイナミックな「弁証法的思考」である。ヘーゲルに顕著だが、それはマルクスまで通底している、正(肯定)反(否定)合(統一)という弁証法は、二元的矛盾を統一していく「全体的思考」に行き着いてしまう。「神の本質と宗教の安らいは全体性の中にこそ」は、共産主義的、ナチズム的全体主義に行き着きやすいと私には思える。ライプニッツモナド論さえ「多様なものの統一」になってしまう。観念性と超越性がドイツ哲学には強いとデュビュイは述べている。カントから論理実証主義ヴィトゲンシュタイン(言語)まで、経験よりも先天的な人間観念の構成主義の重視も、ドイツ哲学では顕著である。(文庫クセジュ白水社、原田佳彦訳)