吉田秀和『二十世紀の音楽』

吉田秀和『二十世紀の音楽』

 2012年5月亡くなった吉田氏は、『主題と変奏』の著作でバッハやシューマンなど古典音楽の複雑で精妙な批評家だったが、それを20世紀音楽という前衛音楽つなげて論じようとしたのがこの本である。1950年代ヨーロッパに滞在したことが原体験になって、「二十世紀音楽研究所」を創設し、黛敏郎、諸井誠、柴田南雄らとともに軽井沢で現代音楽祭を開催した。吉田氏によって日本音楽批評に始めて二十世紀音楽が現れたといっていい。この本はその成果が論じられていて、現代音楽とはなにかを考える重要な著作が収められている。
ストラヴィンスキージョン・ケージ、ヴァレーズ、メシアン、シェーンベルグから、武満徹、諸井誠までの作曲家が論じられ、図形楽譜や電子音楽さらに科学技術時代の音楽まで含む現代音楽論は読み応えがある。20世紀音楽になって初めて西欧音楽と東洋音楽の融合が可能になってきたのは、12音音楽など西欧古典音楽で和音、音程、長さなどの階層化が相対化されてきたことにも根底がある。
私は吉田氏の武満徹論が面白かった。シュトクハウゼンやベリオ、ヴェーベルンの音楽には古典音楽にある力の緊張と昂進を目指すダイナミックな性格とは逆の「静寂、静謐の美学」があるとし、武満の「環」などの作品には静謐の美の啓示に加え浄福と呼びたい静かなきよらかな光が漂っているという。武満は、一音の重みを音楽に取り入れ、日本人の感受性にある音のひしめく「間」として、無言である「沈黙」を作曲にとりいれたと指摘している。沈黙の力強さと音の簡潔さを伝統芸能「能」舞台の音楽に引き付けて論じている。シェーンンベルグからのセリー音楽や、ケージらの偶然性の音楽が無ければ武満の東洋現代音楽は無かったろう。
「二十世紀の音楽」という論文は、「演奏家を中心として」「作曲家の側から」「社会と公衆の側から」の三部作からなっており、私は現代音楽論だけでなく、現代芸術論としても重要な指摘を多く含んでいると思う。音楽祭やデジタル技術によるオーディオの発展、なぜ公衆が古典音楽を好むかなど文明論まで立ち入って論じている。享受する聴衆から参加する聴衆へという吉田氏の考え方も示唆に富んでいる。(白水社、『吉田秀和全集第三巻二十世紀の音楽』)