吉田健一『英国の文学』

吉田健一『英国の文学』



 何回も読みたくなる。国民性論は難しいが、この本は文学を通してみた英国論である。いまや文芸批評の古典と言っていいだろう。20世紀以後の「近代文学」は除外されているが、それは別に論じた『英国の近代文学』があるからだ。この本は英国文学史とも、シエイクスピアやバイロン、ディッケンズ、ミルトン、オースティン、フォスターなどの作品論として読んでも面白い。序章の「英国と英国人」は吉田氏の実感からの風土論であり、英国の春・夏の美しさと、冬の醜悪さのなかでの極端な生活において、優美な叙情と冷静な頭脳の現実的忍耐力を挙げている。そこには生命力の充実がある。
エリザベス時代の文学からシエイクスピアを論じ、「詩は一つの情熱であって、言葉に対する情熱ではないのである」と吉田氏はいう。エリザベス朝の文学が既に19世紀の浪漫派の文学だと見て、その叙情美と反逆の精神をキイツについて論じ、地上の詩人だがその国はエリザベス時代の英国であり、さらに古代ギリシアだと述べている。
その対極に18世紀の散文による英国の小説があり、清教徒革命と王政復古時代に現実に対する執着と、現実生活での利害の考慮の重視という国民性が、古典主義的な合理的理性による感情の抑制や節度として現れると吉田氏は考えている。オースティンの小説は、日常生活の小さな出来事を正確な観察と周到な構成で登場人物の交渉を描き、人生の教訓を教えていく。
私が面白かったのは吉田氏が英国の宗教文学を論じたうえで、英国人の倫理観が旧約聖書的性格を帯び、赦しの精神に欠け、悪は矯正されることによってのみ克服され、「眼には眼を、歯には歯を」の権利と義務の非情な世界と、勝者が敗者を支配する適者生存の原則を生み出したと指摘し、人間はそれだけでは生きていけず、この倫理を緩和するものが「感傷」だとしている点だ。満腹するまで食事をした後で暖炉の暖かさを快く思い生きているのがいいと思うのが英国人の感傷で、英国の小説では「感情」が「感傷」に堕落する危険が大きく、その感傷を19世紀に多く用いたのがディッケンズだというのである。20世紀のフォスターの小説をオースティンへの復帰であり、現実との交渉での不確実の世界と懐疑精神を共通すると論じているのも面白かった。(岩波文庫