荒俣宏『プロレタリア文学はものすごい』

荒俣宏プロレタリア文学はものすごい』


 
かつて小林多喜二蟹工船』を読んだとき「劇画的」だと思った。荒俣氏はいまや忘れられた文学である大正から昭和にかけ左翼・労働運動と連動したプロレタリア文学を残酷なホラー小説や、官能的なエロ小説や、ミステリー小説、さらにSF小説として読み解こうとしていて面白い。サブカルの弱者、抑圧された者のための露悪小説としての読み方はいま示唆を与える。
蟹工船』は「糞と「性」のオンパレードで下層労働者の暴力による搾取・奴隷労働の極限をサヴァイヴァルする恐怖小説だと荒俣氏は読む。多喜二は共産党の文化エリートとして、このままだと徹底的に地獄に落ちていく貧民たちのホラー小説になってしまうと危惧し、資本家に対決する労働者性が弱まると自覚し、後にオルグ活動を描く「私小説」に転じ『党生活者』を書いた。私小説は面白いとはいえない。
プロレタリア作家葉山嘉樹『セメント樽の中の手紙』や黒島伝冶の小説は探偵小説として捉えられ、同時期に登場した江戸川乱歩二銭銅貨』と同列に置き、「貨幣」と「盗み」の資本の相関性についてのプロレタリア政治小説を、乱歩は怪奇小説として書いたと考察している。エロ・グロ・ナンセンスの時代思潮がプロレタリア文学にも流れ込み、生理的肉欲という即物性で描き、性関係もつ男女を、労働者と資本家の関係と同じく対決と捉えた瞬間から、セックスを男女の心理=生理ゲームとして描く方向が出てくる。平林たい子の過激さも荒俣氏は指摘している。嫌悪感をものともしない直裁な生理現象を描き、すさまじ妊娠体験など肉体の叫びは、働く女性としての攻撃的「強い女」を産み出し、平林の小説における主人公にしていく。荒俣氏は林芙美子と比較し、林はかわいらしいボケを演じる「かわいい女」を小説化したという。
日本のプロレタリア文学には、蔵原惟人の大衆小説路線と中野重治の質の高い純文学の芸術路線の対立があったが、やはり大衆路線の小説が面白い。荒俣氏の本の面白さは、プロレタリア文学をさらに深め、島崎藤村『夜明け前』の変革と挫折、志賀直哉宮本百合子という白樺派との共通性まで論じている。近代文学研究者にない自由な視点が荒俣氏にはある。(平凡社新書