ジョイス『若い芸術家の肖像』

ジョイス『若い芸術家の肖像』

 20世紀小説に大きな影響を与えたジョイスの小説は、英語原文で読まなければその価値は半減するだろう。日本語訳で名訳といわれる丸谷才一氏の本を読む。幼児期から20歳で芸術家を志す成長物語であるが、童話の文体で始まり、日記体で終わる。その間には詩、祈祷、説教、手紙、演劇的会話と多様な文体が綴られ、主人公スティーブンの内面も「意識の流れ」で描かれているから、読みやすいとは言えない。芸術家小説と思われがちだが、丸谷氏が言うように芸術家として成功するかわからない青年を描いて終わっているのは、浪漫派の支配が失せた時代のジョイスの工夫かもしれない。
 私が面白かったのは、英国支配下アイルランドで成長する少年がその宗教的、政治的な偏狭な硬直した心性からの解放を求め、国を捨て自由な芸術創造に向かおうとする成長過程が描かれていることだ。20歳でパリに出て、トリエステチューリッヒと転々とし、58歳でチューリッヒにおいて死んだジョイスの祖国を捨てた原点が少青年時代にあることがわかる。
 またイエスズ会の学校教育を受け優秀で牧師の道を進められたスティーブンが、宗教よりも美の創造としての芸術に転換していく過程も生き生きと描かれているのも面白かった。宗教の悔悟や救済、天国と地獄の説教も迫力があり、その束縛から解放され「美」に赴こうとするスティーブンの美学の論も読み応えがあった。ジョイスにとって芸術は偏狭なナショナリズから解放される世界市民的の行動でもあった。国籍から解放されたジョイスは、母国語である英語の多言語化と創造的解体を志したのは当然だと思った。(新潮文庫丸谷才一訳)