米田綱路『モスクワの孤独』

米田綱路『モスクワの孤独』


 現代ロシア精神史を、人権を核に国家権力・権威的ロシア社会と市民個人として対峙したデシィデント(異論派知識人)から描いた本である。500ページ以上になる大作であり、米田氏の力量を感じた。スターリン批判に始まる「雪どけ」時代のエレンブルグの「汝はすべてを見た。記憶せよ、そして生きよ」というメモワール出版と検閲の闘いから、スターリン時代に「人民の敵」として収容所で死んだ詩人マンデリシュタームの妻ナジェージダの「歴史の不可避性」からの粛清に対しての解放の闘い、さらに1968年ソ連軍がプラハの春を抑圧するため戦車で侵攻したのに反対し赤の広場に座り込み、シベリア送りになった女性言語学者ボゴラスの人権闘争の一生が描かれている。さらにプーチン時代の2006年にチェチェン戦争の虐殺など報道し暗殺された女性ジャーナリスト・アンナ・ポリトコフスカヤが、プーチン時代のロシア大国主義で人権が蹂躙されていく真実を報道して殺されるまでを追っていく筆致には迫力がある。
 この本の特徴はソルジェニーツィンやサハロフなど有名な大物でなく(もちろん登場するが)夫や恋人を収容所に送り込まれた女性に焦点をあわせ、粛清への意義申し立て、人権や情報公開、言論・思想の自由さらに名誉回復を苦難のなかで、いかに粘り強く個人で主張したかを詳細に書いていることにある。ロシア帝政時代に異論派だった貴族デカプリストが弾圧されシベリア送りになったとき共に行動したデカプリストの妻たちを彷彿させる。
 ロシア精神史のなかのインテリゲンチャによる権力への異議申し立てという伝統は、21世紀までも続いていることが判る。人間個人の自由と自立、権威に隷属しない精神、社会順応主義への異議申し立ては、ソ連崩壊の引き金にもなったが、米田氏によればエリッイン、プーチンのロシア大国主義と権力弾圧の現代にも、依然として異論派知識人の精神は存在しているということになる。ロシア精神史を知るためにはぜひ読みたい本である。(現代書館