作田啓一『ルソー』

作田啓一『ルソー』

ルソーは「水晶のような透明な心」を自己理想とした。だがルソーを読むたびにその複雑で変動激しい矛盾に満ちた著作に苦労する。社会学者作田氏のこの本を読むとルソーの一貫した体系的思想家が浮かび上がってきて頭がすっきりした。個人と集団の幸福とは何かという視点で読んで行くから、わかりやすい。
作田氏は自我を三つに分ける。まず社会我。人は外界と接触する時安全を求め自らを防衛する。社会集団に属し仲間と結合し自我を防衛しようとする。第二に独立我。なんらかの価値実現を目指し自己をもっと高い理想に向かおうとさせる超越志向である。第三は超個体我という溶解志向で、自己と外界の壁が消失し、自然や他者へと同化しようとする。作田氏は、ルソーがこの三段階を通って思想を深めたと考えた。その上で独立我は社会我とも結びつくし、超個体我にも結びつく。超個体我は「一般意思」である。そこが、全体主義とも誤解された。
人間は自己愛を持つが、それが社会に入ると他者への心理的「依存」と比較・競争による自尊心が生まれる。自然状態の自己充足による「存在の感情」が自尊心・虚栄心でだめになる。疎外から自己充足をとりもどすためには、「直接性信仰」による開かれた心による他者、集団への溶解が必要と考えた。ニーチェとドストエスキーとの作田氏のこの点の比較も面白い。
ルソーは生まれた時母が死にそれが父に対する罪の意識を生んだ。作田氏はルソーの第一の自己革命を父への回帰から捉え、超自我の成立と他者の依存関係への攻撃を見た。ルソーの第二の自己革命は母(ヴァランス夫人)への回帰であり「新エロイーズ」のジュリへの愛からの集団への溶解である。溶解体験はルソーの直接性信仰の核である。幸福感が充満している。祭りと契約がそうだと作田氏は見る。だが晩年に「孤独の散歩者」では、ルソー=感性と迫害者=理性に分裂したことがルソーの悲劇だった。(白水社