蓮実重彦『監督小津安二郎』

蓮實重彦『監督 小津安二郎

世界映画界でも小津作品の評価は高い。蓮實氏は小津的なもとして、否定形で語られるカメラの位置が変わらない、移動撮影がない、俯巌がないとか、俳句的とかもののあわれとか幽玄といった「紋切型」を批判し、過剰な映像の戯れから迫ろうとしている。映画批評に新しい視点を打ち出している。映画とは何かを考えさせる。
「晩春」の終わり近くに有名な「壷の場面」がある。笠智衆原節子の父娘が娘の結婚前に別れの儀式として泊まる旅館に、壷を備えた固定場面がある。二人が共に一室で就寝する。日本旅館の障子窓に月の逆光で壷が浮かび上がる。寝ている原節子の白く浮き上がった眼を開いた顔が対照的に映し出される。父の鼾の音。静寂と孤独、別れの諦念など幽玄やあわれなどの風流の解釈でなく、蓮實氏は「性の露呈」を感じ、壷により「床の間の置き物の持つ物質性と装飾性としてのよそよそしさを模倣し、そのことで娘の愛の放散に耐え、その期待を遠ざけていた」と書き、娘の近親相姦の想像を許さない画面連鎖の的確さをいう。映画をみる快楽がここにある。
階段の不在と階段がわずかにしか映らないが、映ったときは、娘が結婚して出ていった誰もいない二階という名の「無」につかわれる。過剰と欠如の並存。対話者が眼をかわさないこと、二人が並んではなすシーンの多用、小津には雨のシーンがほとんどなく、晴れのシーンばかりは何故かといったところから小津映画に迫っていく。「東京物語」は快晴の映画で小津は白昼の作家という指摘は面白い。東山千栄子の死を始め、小津的存在は良く晴れた暑い一日に死ぬ運命だ。晴れシーンにハリウッド映画の西部の影響をみる。だが小津映画は日本的美意識が豊富に見られるのも確かであり、小津論は今後も発展するだろう。(ちくま学芸文庫