多田富雄『能の見える風景』

多田富雄『能の見える風景』
免疫学者多田氏が、脳梗塞で声も出ず半身不随になりながら、能を車椅子で観劇し、おまけに自ら新作能まで書いて死んでいった。その晩年の能論、能評を集めた本である。かつて『免疫の意味論』を読み人間の免疫細胞の凄さを学んでいたが、こんなに能に造詣が深く、半身不随になった後の再生と生きる力になっていたとは知らず、頭が下がった。
 多田氏によると、能とは「異界からの使者たち」が現れる演劇だという。想いや恨みを残して死んだ人々の霊魂が、生前のゆかりの地に現れ、愛憎の事件を舞い成仏を願う。多田氏は「幽霊の劇、または魂の情念の劇」という。「定家」の作品を例に式子内親王と定家との恋慕の情念の呪縛について、能では劇的事件はすでに過去に終わり幽霊は死者だから全貌を知っていて、だから劇は心の中で進行すると指摘している。
能評も面白い。「朝長」をアフガニスタンで地雷を踏み片足を失った少年にみたて反戦能とみる。「三輪」はエコロジーの神遊というし、「景清」は障害者の矜持と失意の心理劇と解く。こうした批評が出来るのも、多田氏が自ら新作能を作り上演されているからである。「一石仙人」はアイシュタインを扱い、「原爆忌」は広島「長崎の聖母」は長崎原爆被災を扱う。能で原爆被災を扱う凄さ、広島では怨念の鎮魂が、長崎では復活と再生が見事な能になっている。
私はこの本の「去りしひとに」が好きだ。死んだ白洲正子さんを能「姨捨」に喩え、鶴見和子さんを「山姥」に喩え哀悼している文章を読んで涙が止まらなかった。(藤原書店