吉川忠夫『王義之』

吉川忠夫『王羲之
中国4世紀東晋時代「蘭亭序」で書聖と言われた王羲之について書かれた本で、六朝時代の歴史や王が影響をうけた道教の精神世界が描かれている。書芸術のみならず、東晋時代の貴族の生活や精神状況がわかり、魯迅の「魏晋の気風および文章と薬および酒の関係」と併せ読むと面白い。王は東晋の名流貴族の出で・官職を務めた後蘭亭の会を催し49歳で辞任し逸民になる。59歳で死んだ時、詩人・陶淵明が生まれている。
 この本で興味深いのは、王と道教の関係を深く追求した点である。書「蘭亭序」始め「黄庭経」は王の傑作だが、其処には道教の精神世界が込められている。生の宗教としての道教は、永世の神仙になるため、呼吸法や房中術、薬石、薬草などの養生術と不老不死を求めた。王の書にも人間の生死の儚さがあり、それを乗り越える草木山水という自然の一体化という神秘主義があった。と同時に人生の一瞬一瞬を充実する「目前」主義もあった。吉川氏は王の残された書簡を丁寧に解読し、人生の儚さによる不安の思想と生活を明らかにしていく。
 私が面白かったのは、王のように山水愛好が山水詩や山水画六朝時代が生み出し、その自然神秘思想が、志賀直哉「暗夜行路」や道元の「正法眼蔵」渓声山色におよんでいるという指摘である。書のなかに技法だけでなく、世界観が詰まっているわけで、果たしていまの書にはどういう思想があるのだろうかとも思った。(岩波現代文庫