石井宏『反音楽史』

石井宏『反音楽史


 石井氏の視点はなぜ日本の音楽室に3楽聖(バッハ、ベートウベン、ブラームス)の肖像が飾っているのか、から始まる。その上で作曲家中心(譜面重視)でなく演奏家、聴衆も踏めた「音楽の場」という総合性を重視する。またクラシックとジャズ、ポッブス、ミュージカル、歌謡曲のジャンルの消滅と、音楽の差別化を廃している。石井氏によれば音楽は有史以来官能の産物で、厳格・瑣末・禁欲となじまない。それが19世紀ドイツ古典、ロマン音楽を頂点とするドイツ中心の音楽史観が歪めてしまったと言う。
 「反音楽史」とは作曲家ローベルト・シューマンの音楽論から始まり、パウル・ベッカー、アインシュタインに至る音楽史を批判し、それらが音楽形式や器楽中心、ソナタ重視などを採ったことへの「反」だと言う。音楽史でいえば、17,8世紀からイタリアがオペラという声楽を中心に音楽先進国であり、後進国ドイツの音楽家(モーッアルト、ヘンデルハイドン、クリスxチアン・バッハなど)はイタリアオペラから学び、追いつこうとした。石井氏の指摘するように日本ではイタリア音楽史が軽視されてきた。
 だがこの本の面白さは様々な音楽家の生き方が逸話を交え述べられている点である。20世紀になって、再発見されブームにまでなったヴィヴァルデイの「四季」はこれまで音楽史で無視されてきた。ヴェネツィア赤毛の司祭ヴィヴァルデイは、ピエタ孤児院で音楽を教えていたが、その間オペラや協奏曲をかき62歳の時カール5世に見出され、ウィーンに行く。が、皇帝の突然死で戦争が始まり、その後の足跡も没年も不明で1932年になり貧民共同墓地に袋ごと放り込まれたことが分かったという。
 べートウベンを頂点とするドイツ音楽重視は、カント、ヘーゲルの「美」と「崇高」の美学・観念論哲学と連携していたという指摘は面白い。だがいくつか疑問がある。シューマンの音楽論は確かにベートウベン崇拝の伝統を打ち立てたが、ロマン派やリスト、ワグナーの主観的誇張よりも、表現の簡潔・明瞭,構成の主観性の抑制を重視し必ずしもドイツ音楽万歳にはなっていない(「音楽と音楽家岩波文庫)。またベッカーは音楽史から直線的進化を排し、時代精神で相対化して、多声音楽、イタリアのオペラやオラトリオも重視している。(「西洋音楽史新潮文庫
音楽史ナショナリティだけで論じるのでなく、多国籍的ヨーロッパの視点がEU以後重要視されている今、アジア、アフリカ、ラテンアメリカ音楽史を含める必要が大切だと思う。(新潮文庫)