石川九楊『書とはどういう芸術化』

石川九楊『書とはどういう芸術か』
かつて大仏次郎の生原稿(『天皇の世紀』)を見たことがある。自分用の用紙に万年筆で書かれ、楷書風で落ち着きがあり品格のある書体に惚れ惚れした。石川氏はワープロやパソコンの文体は書字的でなく、発声的いやおしゃべり的という。私もパソコンを打つ大仏さんを想像できない。この本では書とは何かを解き明かしているが、美術か文学かの論争よりも私は漢字論(言語論)や日本と中国の文明比較論として面白かった。
石川氏によると書は筆・墨・紙の芸術であり、「筆触」の芸術であるとしている。筆触とは筆と紙の接点生じる力であり、かかれた言葉の肉体と環境による格闘である。「筆尖を自己、紙を含む対象を他者あるいは世界ととらえれば筆尖と紙とが触れ合う、筆触の現場こそが、自己と他者との総合的関係の比喩」となると石川氏はいう。
中国の書が亀の甲(甲骨文)金属(金文)、石(石碑)木簡などの漢字を刻み込む千年にわたる前史から、抽象的空間である紙に毛筆で書き草書・行書・楷書を創造していったことが、中国の書の水平、垂直・左右相称の彫刻的刻む言語の芸術を生んだという。それに反し日本の書は「くずれ」「くずし」の書であり、その中には「加減」「階調」「歪曲」という意味をふくむ。そこの仮名の散らし書き、分かち書きがあり、戦後の前衛書道(抽象絵画の筆致・ドローイング)がある。漢字文化圏といっても相違がある。
この本にはハッとする示唆が多く含まれている。西洋のアルファベットが交易のために作られた貿易語でしゃべる「声の文化」であり、中国の漢字文化は書く書の文化で、日本は両方を含む二重言語であるなど面白い指摘がある。(中公新書