メルヴィル『白鯨』吉川節子『印象派の誕生』

メルヴィル『白鯨』
いま環境保護の視点から捕鯨禁止が論議されている。だが19世紀はアメリカをはじめ西欧では捕鯨が盛んだった。エネルギー源として鯨油が重要視された。現代の石油争奪の相似を思ってしまう。日本開国は捕鯨基地の確保というアメリカの一つの戦略からだった。『白鯨』出版の次の年ペリーは日本に出発している。そうした捕鯨をめぐる海洋冒険ロマンという形を『白鯨』はとっている。巨大なマッコウクジラ「白鯨」を追跡し、しとめる狩猟の死闘の物語とも言える。
 だが『白鯨』という小説は様々な寓意を含んでいて多くの解釈がなされてきた。巨大な宇宙意識をもつ善と悪との闘争とも読める。それは映画「スター・ウォーズ」にも繋がる物語だ。白鯨を悪、エイハブ船長を善と見る通説に対し、作家W・S・モームは逆に白鯨を善、船長を悪と見る。「巨大な身体、力はあくまでも強く、輝くばかりに美しい彼は、大海原を自由に悠々と泳ぎ回る。これに反してエイハブ船長は、気違いじみた自負心を持ち、無慈悲で、苛酷で、残忍で、復讐心が強い。まさしく悪の存在だ。」(『世界の十大小説』)作家・D・H・ロレンスは白鯨を「白色人種のもっとも深い血の存在」と見る。「鯨はわれわれの白人的精神意識意識の気狂いじみた狂信に狩り立てられ狩り立てられる。」(『アメリカ文学論』)
この小説は巨大な世界を文明が征服して行く遠征物語だ。人間と自然との闘いの時代の物語だ。人間が自己の自然を抑圧し征服しようとして自滅して行く。環境破壊と生物多様性の時代のいま、シセパートの反捕鯨運動の人々は「反白鯨」をとなえるだろう。
鯨は自然の象徴だ。鯨への賛歌がある。鯨を殺し、油をとるためバラバラに解体していく。迫力のある描写だ。人間は血に飢え死体に群がるサメと同じと描かれる。捕鯨船ピークオッド号はアメリカの象徴だ。人種のるつぼだ。エイハブ船長や一等航海士スターバック(いまあるコヒー店はここから名づけられる)は白人でキリスト教徒。銛打ちは4人。ポリネシア人、インデアン、アジア人、それにアフリカ人。エイハブお気に入りの少年は黒人。そこには同性愛の匂いがある。
 エイハブは不屈の意志と偏執的な情念(復讐という負だとしても)と欲望を極限まで追求する。スターバックは功利的な合理計算の人だ。アメリカ資本主義・帝国主義はこの二人の合体からなる。深読みだが、ベトナム戦争時代にダレスからジヨンソンはエイハブ、マクナマラはスターバックと連想して読んでいた。白鯨はもちろんベトナムだ。
アメリカ文学者・亀井俊介氏はメルヴィルの世界はいかなる「整理」をも拒絶する『混沌』だからそのまま受け止めるこころの大きさと度量が必要だと言っている。(『わが古典アメリカ文学』)私はドストエスキーの小説に匹敵すると思った。(岩波文庫・八木敏雄訳)(2010年7月)

吉川節子印象派の誕生』
 マネ論が面白かった。マネが描いた印象とは何かを吉川氏は絵画の細かい分析や、マネの存在したフランス市民社会や家族関係などを辿りながら指摘して行く。印象派とはルネッサンスの西欧人間中心主義による遠近法(見る人間の眼の中心から対象を見る)からの解放だった。近代化が進むフランスで人間疎外や自己疎外が強まり、人間観も変わる。その変わり目の印象をマネは捉えた。
 マネの絵画「バルコニー」「鉄道」「フォリー・ベルジェールの酒場」「オランピア」などを分析して、吉川氏は肖像には親密な人間関係はなく、人間は一個の物として「静物」として描かれていると紹介している。「オランピア」や「フォリー・ベルジェールの肖像」の女性の目は空虚である。マネの家族関係のねじれなども父母の肖像の疎外感に反映している。マネのリアリズムは当時普及し始めた写真との関係で吉川氏は論じているが、印象派への日本浮世絵の影響もさることながら、写真の与えた衝撃(ドガなど)をもう少し論じる必要がある。(中公新書)(2010年7月)