ヴォルテール『寛容論』

ヴォルテール『寛容論』

            18世紀フランスの百科全書派ヴォルテール『寛容論』が、イスラム国のテロであるシャルリー・エブト事件の後、パリでベストセラーになった。日本でも作家・高橋源一郎氏の紹介で読まれている。リベラル派で、理性=徳として寛容を説いたヴォルテールの復活は注目される。
            ヴォルテールは、父が息子を殺したトウールーズで起きたカラス事件が、旧教と新教という宗教上の争いに普遍化され、新教の父が冤罪なのに、死刑にされたことにたいする再審要求から生まれている。ゾラのユダヤ差別の冤罪ドレフュス事件の再審要求に似ている。
           宗教が、異端者とみなす人々を殺害していく「狂信」にたいするヴォルテールの「寛容」の主張が、21世紀のイスラムテロの時代に読まれるとは、ヴォルテールも驚いているだろう。
          人間存在の有限性を説き、理性でも正義でも善でも、神であっても人間は絶対的に認識できないから、自己正当化による他者抹殺は無用であるという。自己相対主義懐疑主義が、かれの立場だろう。だから、自分にしてほしくないことを、他者に強制することを否定する。とくに信仰、思想、良心などは、他者により暴力的に抑圧する愚行は避けるべきだという。
        狂信を癒すに、理性による治療が必要だ。「理性は、効き目はゆるやかでも、まちがいまく人間に合理的な思考力を得させる。理性というには、優しく、人間味があり、他者を許容し、不和をやわらげ、人間の徳をやかめる」その上狂信は嘲笑という諷刺精神で立ち向かうともいう。
       啓蒙主義の理性賛歌がある、だが、ディドロの両義性に比べると、明晰判明だが、狂信を防げるとは思えない。すぐ後のフランス革命でのギロチンによる恐怖政治から、20世紀のナチ・ドイツのユダヤ人大量虐殺には、寛容論はなんら力を持たなかった。
       理想だろうが、ディドロのように人間性の深層にある憎悪、嫉妬、差別、不寛容は、まだまだ克服されていない。寛容は、人間の忍耐力・耐性の強さを必要とする。       寛容を強制的に排除するヘイトスピーチななど不寛容の教条主義が出てきたとき、寛容は強制的法権力排除する非寛容が必要になる。難しい問題を「寛容論」は秘めている。(光文社古典新訳文庫斉藤悦則訳)