ディドロ『ラモーの甥』

ディドロ『ラモーの甥』

            18世紀フランスの百科全書派の主著。私(哲学者)とラモーの甥の対話で全編がなる。目くるめく様なラモーの甥のテクストの戯れの凄さと、権力的知識に対する諷刺・悪口文学として、当時のフランスの旧体制の状況を知らないと理解が難しい。
            権力者(宮廷、カソリックなど)の知識人と、反体制の百科全書派との知識、反知識主義による激しい憎悪さえ感じる闘争が、この本には詰まっているような気がする。
            岩波文庫の翻訳者である平岡昇氏の、大部の解説が有難い。『百科全書』の感覚主義と無神論にたいし、教会側は発禁などの処置とともに「哲学者たち」という演劇を作り上演した。
            ディドロヴォルテール、ルソーが揶揄され、ルソーの自然礼讃は舞台で、四つ足で登場しレタスをつまみ出すなどする。
            ディドロの凄さは、才能薄く寄食者として、道化として権力者にたかるラモーの甥という人物を創造したことだろう。その道化的悪口は、ときたま演じるパントマイムと共に「怪物」的に見えてくる。
           体制にはみ出しながら体制に寄食する「逆接的な偽悪者」というラモーの甥の創造は、現代にも当てはまるのではないか。
この本では、音楽も重要である。フランス大作曲家ラモーの甥が主人公だから当然かもしれないが、当時イタリア音楽が入り、フランス音楽との優劣論争もあった。イタリア音楽の魅力が説かれる。ディドロ国粋主義を批判し、コスモポリタンと批判されていた。
           不正、狂信、特権と戦う百科全書派は、啓蒙主義といわれるが、この本を読めば、人間の深層意識にある憎悪や野心なども持ち、それを諷刺(自己諷刺)する深さがあると思う。
           ドイツでラモーの甥はメフェストフェレスだという評価があったというが、人間を一元的知性として捉えず、非合理の欲望を抱えていることも見抜いていたと思う。
           広岡氏は、ラモーの甥をスタンダールのジュリアン・ソレルやバルザックのヴォートランの先祖という。私は、ドストエスキーのイワンやスタヴィロンスキーの饒舌の逆説的悪を感じてしまう。(岩浪文庫、本田喜代治、平岡昇訳)