小沼純一『音楽に自然を聴く』

小沼純一『音楽に自然を聴く』

自然の音は音楽ではないのではないか。本屋大賞を受けた宮下奈都『羊と鋼の森』は、ピアノがフェルトや森の樹、鋼の線でできているという。底には自然の素材があるが、自然はない。
小沼氏は、自然は音楽と結びついているが、人工的な文化産物と述べている。
昆虫の音の聴き方さえ、日本人と西洋人では違う。サウンドスケープのカナダの作曲家・シェーファーは昆虫の音を「音楽」として聴いていないし、発音形態別に分類し「コロギたちの優しい歌」など音響的視点が強いと小沼氏はいう。
動物の鳴き声だって、文化圏で違う。フランスの作曲家メシアンの「鳥のカタログ」と、武満徹「鳥は星形の庭に降りる」や、吉松隆「鳥ぷりずむ」を聞き比べると、同じ鳥の鳴き声とは思えなくなる。
人間が自然の音を聴くとき。やはり言語化している。鳴き声のオノマトベ・擬声語化する。
小沼氏が紹介しているレーベンシュタイン『猫の音楽―半音階的幻想曲』(勁草書房)は、猫の鳴き声の西洋中心主義を批判し、猫の音楽は「ノイズ・ミュージック」としている。
水になると自然と遠ざかる。チェコスメタナモルダウ」は、ナショナリズムの音楽だし、「黄河」とは川の音楽といってよいのか疑問である。海でもドビュシー「海」とチュルリョーニス「海、武満徹「海へ」、宮城道雄「春の海」では、全然音が違う。
小沼氏は水とピアノ曲の親近性を指摘している。ショパンから、ドビュシー、ラベルと多くの水の名曲がある。その音の純粋性があうのか。自然の音はノイズがあふれているし、音楽の和音も対位法もメロディもないであろう。野生の音楽は、「音楽」ではないと、小沼氏の本を読んでわかった。(平凡社新書