高橋英夫『ミクロコスモスー松尾芭蕉に向かって』

高橋英夫『ミクロコスモスー松尾芭蕉に向かって』
        
     松尾芭蕉論として面白い。高橋氏は近代文学の批評家だが、芭蕉にマクロコスモス(大宇宙)に対応するミクロコスモス(小宇宙)の「両義性」を見ようとしている。
     高橋氏は、この「両義性」を「隠」に入り「隠」を出るや、老人と若者、生と死、「行きて帰える心」、「不易」と「流行」、「重み」と「軽み」、自然と人間といった両義性から、芭蕉を分析していて面白い。
    高橋氏の芭蕉の「軽み」論は興味深い。「おくのほそ道」は、別空間に立ち超えては、こちらの世界に回帰してくる「死と再生」の無限連鎖体だという。死を背負って「重い」が、その反面、生命はろうそくの焔のように、闇の空間を含まない純粋な焔としての生命の「軽さ」「明るさ」を希求した。死と再生は、重みと軽みの両義性になる。
    「問答における機知、意外な曲折、逃げと老いかけは、現実が纏いつかせた『重み』を次々脱ぎ捨てて、軽やかな戯むれるような言葉の波」を呼び寄せ、流動、波動、変幻の諸相を俳句にしていくと高橋氏は述べている。
     この「軽み」は、「風のトポス」で、気圧の変化の空気の振動としての風は、「風雅。風狂、風騒」で、芭蕉は「三冊子」のなかで「乾坤の変は風雅のたね也」と語っている。軽重の差異が風を産み、出立は風となって去っていくこと、すなわち「軽み」を意味し、風の自在さは「隠」や「死」への自在な出没を誘い出すと高橋氏は指摘している。
     『芭蕉語彙』によると、「風」は、発句用例で63、付句79、句評8、紀行23と圧倒的に多い。「野ざらしを心に風のしむ身哉」や「石山の石より白し秋の風」など。紀行文の冒頭に必ず「風」が出てくる。「片雲の風にさそわれ」(「おくのほそ道」)「誠にうすもののかぜにやぶれやしからん」(「笈の小文」)など。
     風は変幻常なしで、有り無しの境界を俊治に乗り越える。トーガや道鏡の「呼吸のリズム」は、息の風という「軽み」が、内部と「外部」をつなげる:
     高橋氏は、風を「切れ」とつなげていく。「切れ」を通して二重レンズのように世界は遠近両景として捉えられ。ミクロコスモスとマクロコスモスに対応し、軽みと重み
がひそかに契合する。「や」という切字の句は多い。「荒海や佐渡によこたふ天河」「夏草や兵どもがゆめの跡」。(講談社学術文庫)