『現代小説クロニクル(1995−99年)

『現代小説クロニクル(1995―1999年)』

      1990年代は「失われた20年」の始まりの時代であり、パソコン、ネット、携帯の大衆化した時期である。阪神淡路大震災オウム真理教サリン事件がおこった不条理、不透明な不安が深い時代だった。小説ではどうか。
 仮想現実と現実が混交し、無境界な空白な世界がどぎつい幻想とない交ぜになっている。阿部和重「無情な世界」は、高校生が公園のベンチで殺されている女性を目撃する物語だが、それをネットで書いていくが、その前に自分自身の妄想と現実が混じり合った心理が描かれ、なにが本当か分からない不安がある。
      角田光代「学校ごっこ」も、小学4年生の女子が、学校ごっこという仮構の演劇的遊びをしていくうちに、現実と仮想が混じり合う状況になる。個我が空白・仮想であり、その不安が現実を変換していく。
      柳美里「家族シネマ」は、ばらばらになった家族が、映画撮影という仮想現実のシネマを撮ることによって、贋の家族を虚構で作ろうとして失敗する。女主人公も、孤独な老人も、つながりを作れず空白な心理が描かれていく。
      目取真俊「水滴」は傑作である。沖縄戦を経験した老人が、突然足が膨れあがり、親指から水滴が流れ出す難病になる。その水滴は若返りの良薬となつたり、かつて戦って悲惨に死んだ戦友が深夜に水を飲みに来る。滑稽感のなかに、いまや戦争体験も仮想現実になっていくという歴史の矛盾が描かれていく。
こうした幻想と現実の混交は、川上弘美「蛇を踏む」にも色濃くでている。蛇を踏んだ女性に、蛇が母親と名乗って出現する。なにか民話的幻想譚のように読める。幻想と現実が無境界になっていく。異類と一緒に生活する不思議な世界に、なにかつながりが感じられてくるから面白い。蛇をなにかを象徴しているという読み方もあるが、異種・異類との愛情物語とも読める。人間同士も異類同士なのだから。川村湊氏の解説も面白い。(日本文藝家協会編、講談社文芸文庫