立川談志『新釈落語噺』

立川談志『新釈落語咄』

             落語家談志の落語論である。太宰治の『お伽草子』にならって、落語「粗忽長屋」から「妾馬」まで20編を新解釈で書いていて面白い。文章を読みながら、生きていたときの談志の高座でのしゃべりを思い出したりする。声が聞こえてくる。
             談志は、落語を「人間の業」という世にいう「非常識」世界を肯定する世界だという。人間の「悪」の最たる者は「欲」であり、文明はありとあらゆる欲望をみたしてやろうとする社会だ。「孝行糖」では、与太郎莫迦でなく、欲に「非生産的な」キャラクターだと談志はいう。「上品」というのは欲望にたいする行為や動作のスローモーな奴だとすると、与太郎はそうだろう。
             与太郎は働かない。親父や叔父に働けといわれ仕方なく出かけるが、「道具屋」も「かぼちゃ屋」も「孝行糖」もしくじるし、「牛ほめ」も「金明竹」では店番でもドジる。働かないという人間のあこがれがある。私はヒッピー的だと思う。
            「粗忽長屋」は、おまえが死んだといわれ熊公は、八公など皆に言われ、マスコミや大衆の主観の強さに流される「主観長屋」という解釈を談志は示す。「だくだく」の解釈も面白い。「なったつもり」という仮想現実による「つもり」遊びが、インターネット時代の前の落語世界に活写されているのだ。
            「長屋の花見」もなったつもりの花見のお笑いだが、「花見酒」は貨幣が循環めぐりしてGDPが増えたように見える。マルクス資本論」など入る余地がないという。私は笠信太郎の名著『花見酒の経済』を思い出した。古典落語の伝統の重さを談志はよく知っていたが、そこに己の新解釈を入れようと苦闘している。
            「文七元結」や「芝浜」など人情咄は、「人情」という性善説をわからないという。談志のいう落語は、不人情の肯定であり、非常識が人間本来だとするから、人情咄にはなじめないともわかる。落語の非常識の奥には、常識人のわからない「狂気の世界」やイリュージョンがあると談志はみる。「居残り左平次」の了見でいようと、談志は人情咄を変えていく。(中公文庫)