フランソワ・ビゼ『文楽の日本』

フランソワ・ビゼ『文楽の日本』

           「人形の身体と叫び」という副題。滞日10年、年12回も国立劇場文楽を見に行き、さらに女義大夫を自ら学ぶビゼ東大準教授の文楽論で面白い。西洋演劇や歌舞伎、能との違いも視野に入れて、バタイユロラン・バルトアルトードゥルーズなどの身体芸術論まで引用し文楽を論じている。
           ビゼ氏の文楽論は、西欧的リアルな演劇に対して、大夫の語り、三味線の音、人形の動き、人形遣いの扱いなどの分裂をいかに総合芸術にして、リアルな演劇が演じられるかの分析である。日本文化論にもなっている。力作である。
           義大夫という「声」のオペラとは違う芸術に、ビゼ氏は引き込まれる。「絶対的語り手」「大夫の怪物性」という。声自体が所作となり、声の叙事詩となる。歌と語りが融合する。人形は亡霊で語りが生き返らせ、言葉が動くという。「サワリ」論も面白い。
           文楽は「場所理論」で「私」が超越的自我とは異質で、場所が先ず特定され、そこで他者との関係が決まり、初めて「私」が規定される。登場人物は、偏在するが同時にどこにもいない。
           ビゼ氏は、文楽の残酷さを、「伊勢音頭恋寝刃」や「阿弥陀胸割」や数々の首検分を論じ、切り刻まれた解体する身体細部を「身体なき器官」として示せるのは人形だからだとビゼ氏は見る。演劇の俳優の身体というものを迂回させるのだ。
           複層的で並列的な文楽特有の共感覚に、ビゼ氏は感嘆する。ビゼ氏は文楽を「布地の演劇」という。空虚な中心を包み込む布地の集積の人形が、自在に布を変え、様々な音が共鳴する空間を物語っていく。人形遣いの素顔と仮面の人形との異質なものの融合・調和が文楽にある。舞台上の巨大な布地は際限なく包み込み、流動的でフラクタルな表面、表皮のアメーバ空間がある。(みすず書房秋山伸子訳)