青柳いづみこ『ドビュッシーとの散歩』

青柳いづみこドビュッシーとの散歩』

ピアニスト青柳氏は、ドビュッシーの多面性を気づかしてくれる。文章もうまい。音楽を言語化するのは難しい。だが、青柳氏はピアノを弾くように文章を描く。例えばピアノ曲「水の反映」
「三和音の連なりが波のようにうねるラインを描き出し、その上に水滴を思わせる三つの音がしたたり落ちる。やがて小さな渦を巻く。渦は次第に大きくなり。カデンツァ風のパッセージに発展する。クライマックスは輝かしい変ホ長調アルペジオ
ドビュッシー印象派とか象徴派とか言われてきた。だが、青柳氏の本を読むと単純化できない。バッハ的な「音響の自由」がドビュッシーなのだ。本質が詰まっている「アラベスク」は、アルハンブラ宮殿の唐草模様のからみあう曲線のアルペジオだ。
スペイン・グラナダものから、オリエンタリズムの日本、タイ、崩壊しつつある機能和声に変わる東洋的な音階の美意識を「しかも月は廃寺に落ちる」や「パゴダ」「金色の魚」で使う。
私はマラーに近い感性を感じる。「ミンストレル」でアメリカ的大衆芸能を使うし、エドガー・アラン・ポー「アッシャー家の崩壊」という残酷なオペラを作曲しょうとしていた。完成したら「ペレアスとメリザント」とは少し違うオペラになっていただろう。
ドビュッシーは、印象派よりもターナーがすきだったという青柳氏は、ドビュッシーにはミロやクレーの抽象絵画に近いともいう。ピカソなどのキュウビズムに通じるのは、「映像第一集」の「運動や、「前奏曲集第二巻」の「交替する三度」を挙げている。両曲とも18世紀のクラブサン音楽の二段鍵盤技法だが、印象派のラインがぼやけることなく、鋭角的に組み上げられていくという青柳氏の指摘に感心した。
2018年に没後百年を迎えるドビュッシーは、どう変貌していくのだろうか。(中央公論新社