中村孝義『ベートーヴェンの器楽・室内楽の宇宙』

中村孝義『ベートーヴェン 器楽・室内楽の宇宙』

私、いまアルバン・ベルグ四重奏団のベートーヴェン弦楽四重奏曲14番」を聴きながら、中村孝義・大阪音大理事長のこの本を読んでいる。ピアノソナタ弦楽四重奏曲ピアノ三重奏曲、ヴァイオリンソナタチェロソナタの器楽世界を深く掘り下げた力作である。伝記としてはソロモン『ベートーヴェン』(岩波書店)が傑作だが、楽曲分析として中村氏の本はすぐれている。
中村氏は、器楽を①ソナタ形式②調の選択と機能③変奏技法④対話形式⑤多声・対位法⑥標題性⑦スケルチォ(舞踊)⑧カンタービレ(歌謡性)⑨デュナーミク(強調性)から分析している。ピアノソナタの変遷を、初期作品2から作品22を意外性に満ちた多元的試みとし、中期のテンペスト、月光、熱情、告別を、劇的情熱など音の構築とし、後期作品90、作品110などを世俗的世界から離れた超越世界としている。
変奏曲やピアノ三重奏曲の歴史的意義なども面白いが、中村氏の本で私が興味深かったのは弦楽四重奏曲の宇宙を述べた部分である。中村氏によれば、自らの内なる声を明確にし、音にする行為が弦楽にはあるという。ラズモスキーセットから始まり、後期の作品12−16番にいたる弦楽四重奏曲は、ベートーヴェンの傑作である。
ハイドンが眉をひそめ、聴衆から理解が難しいと不評だった弦楽四重奏曲が、いかに革新だったかを中村氏は述べている。後期は聴覚が失われ、苦難の生活の中でベートーヴェンが、いかに内的世界に集中して内省していったかが、音の宇宙で構築されている。14番の解釈は音楽学者を悩ましてきた。古典派からロマン派の二重性という見方もある。
音楽学者シェーリングは、シェークスピア戯曲「ハムレット」を14番に比較し楽章まで一致しているという。第一楽章ハハムレットの独白、第六楽章はオフェーリアの歌、第七楽章をハムレットの死など。音楽象徴論は面白いが、音楽を劇的物語にしてしまう証拠は弱い。またダールハウスは、晩年様式は不安を醸す現象とし、あくまでも音楽的完結のなかでとらえ、表層とちがう四つの音高構造の潜在的ネットワークを潜在的に張り巡らせたとした。
中村氏は、晩年にカンタビーレ(歌謡性)へのこだわりと、超越的で自由で彼岸的な世界の対話に、ベートーヴェンが飛翔したとしている。私は13、14番の弦楽四重奏曲を深夜聞いていると、抽象的な神秘世界の中に、催眠作用で引き込まれていく快感さえ感じてしまうのだ。(春秋社)