加藤典洋『村上春樹は、むずかしい』

加藤典洋村上春樹は、むずかしい』

     加藤氏が2013年の国際シンポで、村上文学が中国、韓国の知識人には受容されず、大衆迎合、若向きのエンターテインメントに過ぎないとの発言にたいして、日本文学の伝統につらなるまっとな純文学だという村上像を打ち出すために書いた本だ。賛否はあるだろう。だが、村上文学とは何かがよくわかる。
     1970年代の「風の歌を聴け」から、2010年の「1Q84」までの軌跡を加藤氏はほとんどの全作品に触れて分析している。70年代学生運動の「否定性の自己革新の運動」の否定から始まる悲哀から村上文学は出発しながら、「気分が良くて何が悪い」という「肯定性」への新しさがあると加藤氏はいう。初期を「戦う小説家」だといい、中国への贖罪意識「中国行きのスロウ・ボート」、反時代的寓意「貧乏な叔母さんの話」、内ゲバの死者への関心「ニューヨーク炭坑の悲劇」を挙げる。
     1980年代の作品を「個の世界」と規定し、「否定性から内閉性へ」とし、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を論じる。87年から99年を「対の世界」とし、恋愛の横の三角関係としての「ノルウェイの森」から、さらに関係性は歴史叙述に広げられ「ねじまき鳥クロニクル」に行き着く。個人のモラルとロジックを掘っていくと、無意識界に、記憶と伝承と物語が想像の回路に現れる。
     90年代末の地下鉄サリン事件阪神淡路大震災は、村上文学の転機になったと加藤氏は見る。「アンダーグラウンド」「約束された場所」で「ただの人」である民衆の視点が入ってくる。と同時に縦の基軸がでて、一人称から離脱し「父と子」が現れ、「海辺のカフカ」に結実する。「喪失」から「欠落」へ、「他界」から「異界」へ、父と子の対峙が書かれる。「損なわれたもの」がいかに回復するかも主題になる。
      加藤氏は「1Q84」は未完であるという。それは「正義」に身を任せ、人を殺害した者が、その「正義」を離れた後どう生きるかがまだ終わっていないからだという。テロリズムの問題がここにあるという。
      東日本大震災福島原発事故以後の作品として「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の旅」は、自分を空っぽの容器と考える主人公が、過去の連帯の気持ちがのこっていれば、共同体の再生は可能だと加藤氏は読む。たしかに村上文学はそう読むと難しい。だが、私はサブカル的にエンタメとして読むのも、また楽しいと思うのだが。(岩波新書