四方田犬彦『テロルと映画』

四方田犬彦『テロルと映画』

私たちはテロリズムの時代に生きている。四方田氏は、映画がいかにテロを描いてきたかを、9・11米国テロを中核に置いて考えている。この事件が既視感をもって迫ってきたのは、ハリウッドのパニック映画に似ているからだ。
四方田氏は、テロリズムとは不特定の他者の眼差しを前提に行使される暴力であり、映像などを通じた「スペクタクル」であるという。とすれば映画と親和性を持つ。映画のとりうるテロ廃絶は、映画からテロの魅惑を排除する方法の模索だと、四方田氏はいう。果たしてそれは可能なのか。
スペクタクルが映画に及ぼした影響は、スピルバーク監督が2005年「ミュンヘン」で、パレスチナ解放戦線がミュヘン・オリンピックのイスラエル選手へのテロを扱った映画からである。9・11テロの元凶はここにあり、憎悪と復讐の連鎖という視点で描く。テロリストの自己顕示欲もとスピルバークはいう。
ハリウット映画は「ダイハード」に代表されるように、テロはアメリカを憎む外部の悪の他者が襲撃し、それを英雄的な白人が勧善懲悪的に絶滅させる映画がある。四方田氏は、この対照として2007年のインドネシア映画「天国への長い道」をあげている。バリ島で起きたテロを、複数の声と視座であっかい、テロリストを外部でなく、イスラム社会の内部に潜在していると認識し、自己回復を目指した映画であるという。
テロリストの内側を描いた映画として「カルロス」と「パラダイス・ナウ」が論じられている。スペクタクルは、個人の自己顕示欲と相性がいい。この2本とも、テロ組織に内在する退廃と権威主義、非人間性が描かれるが、「パラバイス・ナウ」には、暴力をスペクタクルとして演出しないという欲望がある。
四方田氏は、テロを扱ったブニュエル若松孝二ファスビンダー、ベロッキオの4監督の作品を分析していて興味深い。ブニュエルは恐怖の偏在化を、若松はテロ組織も独裁国家権力と同様に欺瞞と相互監視がある。
       ファスビンダーは暴力のスペクタクルもメディア消費社会に絡め取られてしまうし、ベロッキオでは自由と解放が死の欲動フェチシズムという別の物語になり、自己解体していくことを取り上げている。
この本を読むと、テロが1970年代のパレスチナ解放戦線と、学生・若者の革命が挫折し、赤軍や、赤い旅団から発しているコトがわかる。イスラム過激派の源流はここにある。映画ではそうだ。(中公新書