シェイクスピア『ヴェニスの商人』

シェイクスピアヴェニスの商人

    諷刺的喜劇である。ユダヤ人金貸し・シャイロックは、誇張的に道化役として描かれているし、判事に仮装する貴婦人ポーシャは、宝塚のように男装の麗人である。シャイロックの娘ジェシカと駆け落ちするロレンソーも、モリエール喜劇に登場するような、父シャイロックをコケにする。
    だが、テーマは近代が抱え込む金融資本主義、投機的市場主義、反ユダヤ主義、法の支配の虚構性を、シェイクスピアは直感的に諷刺している。近代の起源に早くも20世紀現代に増殖していく虚構が、原始的形で現れている。だが喜劇だから、御伽噺的で現代のような深刻さはない
    反ユダヤ主義ではなく、シャイロックと金を貸すアントーニォーとの間でさえ、友情を求め合うような共生の掛け合いさえある。アントーニォーが投機的資本という経済学者・岩井克人氏のいう「差異」で金儲けする商人とすれば、そこに金融資本を貸すシャイロックがおり、共生関係が存在する。
   「人肉裁判」という滑稽さは、虚構である。金融という虚構経済が、実物経済の「肉体」という担保をとり、「反利子」という「キリスト教的慈悲」の考えに対立している。私はこの人肉担保は、すでに始まっていた「奴隷市場経済」を暗示していたとも思ってしまう。
   ポーシャも男装判事という虚構のうえで、「法の支配」の虚構性を、喜劇的にあばいていく。人肉を切れば、血が流れるのは最初から自明なのだから、ポーシャの判決は「詭弁的解釈」にすぎない。「法の支配」が、その時々の「解釈」によって、いかに歪められていくかは、現代日本の安保法制でも見られる。
   ポーシャの婿選びの「箱選択」も御伽噺的であり、結婚制度の虚構性・投機性を示しているし、それに対してジェシカとロレンソーの駆け落ちは、美しいロマン的夢を示している。シェイクスピアが17世紀に喜劇的諷刺に描いたものが、現代に「悲劇的」増殖を遂げたことを知ったら、驚くだろう。
  冨の欲望と差別主義は、キリスト教的慈悲と、共生による和解を破壊していったのである。「ヴェニスの商人」は、その牧歌性・喜劇性の演劇として、予感に満ちている。(新潮文庫福田恒存訳)