保阪正康『昭和史のかたち』

保阪正康『昭和史のかたち』

昭和史の全体像を捉えるのは難題である。戦後歴史学者・唐山茂樹・今井清一藤原彰『昭和史』(岩波新書)は、唯物史観という二元的図式を基礎にした昭和史の名著があるが、人間が描かれていないなど批判もあった。保阪氏は、昭和史を「図形化」という幾何的なかたちを使い、全体像に肉薄しようとしている。『昭和史』時代に比べると、情報量も格段に多くなり、ノンフィクション作家でもあるためか、人間的視点もある。
   三角錐の図形で、底面をなすのはアメリカと天皇であるとしたり、日本型ファシズムを、「情報一元化・教育の国家主義化・弾圧立法の制定と拡大・官民挙げての暴力」の四辺形から考えたり、昭和史と「直線」では、軍事主導体制と高度経済成長を、同じ直線主義とみたり、発想が面白い。
   昭和史と三角形でも、「天皇統治権統帥権」を組み立て、重心が歪み、統帥権天皇からさえも「独立」していくという。テロリズム軍事独裁国家を、5・15時件以後のテロを昭和の「文化大革命」と論じたり、日米開戦までを「球」の類比で説明したりわかりやすい。
     だが、昭和後期(1970,80年代)が、ほとんど図式に入ってこないのが気になった。戦後憲法体制は、トポロジー図形化するといいかもしれない。
  だが私が納得できないのは、昭和天皇の責任問題である。保坂氏は、天皇統治権統帥権を三角形にし分離している。その上で天皇統帥権が入れ替わったというが、それらは天皇の属性として内部に一体化しており、天皇の心情とは別である。
戦争責任に関しても、「昭和天皇実録」や「独白録」さらに側近の手記などで、天皇反戦主義立憲君主を守ろうとしたとし、「私の分析では、天皇には開戦から終戦までのプロセスには、法律上や政治的な判断と同様に自らに何の落ち度がない、あるいは寸分の誤りがないと考えていたと思うが、国民(臣民)に対しては自責の念があったとみるべきではないのか」と保坂氏は述べている。
昭和天皇に関する情報は、最近飛躍的に増大したが、果たして天皇の「人間性」により戦争責任は免責されたとは到底思えない。単なる「虚数」によっての昭和天皇論は、いただけないと思う。(岩波新書