カー『火刑法廷』

ディクソン・カー『火刑法廷』

    構造主義文学の研究者ツヴェタン・トドロフは、幻想文学を、小説で語られる奇怪な出来事について、合理的に説明をとるか、超自然的説明とるかの「ためらい」が構造にあるとした。(『幻想文学論序説』東京創元社・創元ライブラリ)
    トドロフは、ジョン・ディクソン・カー『火刑法廷』(1937年刊)を挙げている。カーのこの小説では、ミステリと幻想物語がない交ぜになっている。ペンシルベニア州に広大な敷地をもつデスパート家の当主が毒殺される。遺産相続した甥の弁護士一家は、家政婦の証言で古風な仮面衣装をつけた婦人が、毒を飲ませ壁をすり逃げていったという。墓を調べると死体が消失している。
    そこに毒殺魔の家系をもっという女性がからみ、謎が深かまっていく。謎解きは、ミステリの常道で、合理的に解明され、消える人影も、死体消失も、毒殺犯人も探偵作家と警察によって、合理的に説明されていく。だが、カーらしく毒殺女性の家系をめぐる不死者としての「魔女」的な怪奇は、残されていく。
    合理的解明が勝利したかに見えたが(ミステリとしても一級品だ)、最後にどんでん返しがあり、幻想怪奇が勝ってしまう。合理的に説明できない超自然の人間心理が浮かび上がってくる。英米文学にはそうした幻想怪奇の好みがある。アラン・ポーから、ヘンリー・ジェイムスの幽霊など、認識の不確実性や宙吊り状態の小説がある。
    幻想は、恐怖と驚異という人間の感性と結びついている。ホラー映画に繋がる。
    だがそれを、あくまでも合理的な視点を入れながら解明しようとする小説と、超自然の幻想・魔術的ファンタジーにいく小説とが、二極化されている。理性と幻想は、裏表なのかもしれない。それともキリスト教の宗教的心性がによる「悪」の存在と絡んでくるのだろうか。(ハヤカワ文庫、加賀山卓朗新訳版)