上田秋成『雨月物語』

上田秋成を読む(1)
上田秋成雨月物語

     『雨月物語』は怪異小説だという。そうだろうか。人間が欲望の執着により、鬼や幽霊になる執念を、超自然的に描いているシュールな物語なのだ。人間の非合理的な情念の恐ろしさという面をみれば、恐怖小説だともいえる。米国のステーヴィン・キングの小説に近い。
     国文学者・浅野三平氏は「執着の文学」といい、「孤児も文学」という。秋成は、父は不明、4歳で母に捨てられ、養父母上田家に引き取られた孤児である。孤児には人間社会の孤独を、人為的信義や契約・約束に依存して生きていかなければならない。その社会契約が裏切られれば、破滅になる。私は雨月物語の世界は「契約―裏切り」の文学だと思う。
    「菊花の約」は、友情という信義を貫くために命を捨ててまでも、友との約束を守ろうとする。太宰治『走れ メロス』よりも、シュールで悲惨である。「浅茅が宿」は夫婦間の約束が、戦乱で夫が家に帰られなくなり、何年の待った妻が、亡霊になっても約束を待つ物語だ。
    愛欲の執着を描く「吉備津の釜」や「蛇性に婬」は、契約・信義を裏切られた女性が、恐ろしい嫉妬で相手に取り付くストカー的な破滅物語である。「青頭巾」では禅僧が美少年を寵愛しその死肉まで喰らい、人肉屍食者になるドラキュラ的恐怖小説である。「白峯」では崇徳上皇、「仏法僧」では豊臣秀次の政治的敗者の怨霊の執着を描き、貶めた裏切りへの死んでもおこなう復讐を描く。
    秋成の文体は漢和混淆文で名文で、恐怖を見事に描く。「されど屍も骨も見えず。月あかりに見れば軒の端にものあり。ともし火を捧げて照らし見るに、男の髪の髻ばかりかかりて、外に露ばかりのものもなし」(吉備津の釜)。いや恐怖小説の極地がある。(新潮日本古典集成・浅野三平校注『雨月物語・癇癖談』、鵜月洋『改訂・雨月物語角川ソフィア文庫