ブレヒト『ガリレイの生涯』

ブレヒトを読む(3)
ブレヒトガリレイの生涯』

ブレヒトは、「戦争はなによりも科学を促進する。なんという機会なのだろう この戦争という機会は、火事場泥棒ばかりではなく、発明家も生むのである」と、1947年の「ガリレイの生涯」のまえがき草案で書いている。1937年亡命下で書いた劇は、アメリカに亡命した47年、原爆の広島、長崎投下を知り、その科学技術が極秘扱いになると、最後の14場での、ガリレイの自己断罪に、大きく書き換えられた。
アメリカでの上演の背景で「ガリレイの犯罪は近代科学の『原罪』と見做すことができるだろう。新しい天文学は時代の革命的な社会潮流を推進するものであったから、新しい階級であった市民階級の深い関心をよびおこしたが、ガリレイはその天文学を、厳しい限界のある特殊科学にしてしまった」と書いている。ローマ法王庁の審問で学説撤回をしたことだ。
だが私はこの戯曲を読んでみて、ガリレイの両義性を感じた。理性を信じ、「新しい時代」が始まると意気軒昂な第1場のガリレイは、14場でも「私は科学の唯一の目的は、人間の生存条件の辛さを軽くする」という民衆の科学を述べている。
だが一方では、ローマ法王庁やフィレンツエ大公など権力者には、決して反抗せず敬虔であり、贅沢なくらしやワインなどの快楽のある生活を楽しむ欲望の持ち主なのである。
真理に対するあくなき好奇心も、こうした功利的欲望と同じであると考え、英雄嫌いなブレヒトらしい。ブレヒトは、ガリレイを知的英雄と描かないし、悲劇としてもドラマ化していない。最後のシーンで弟子アンドレアに『新科学対話』のコピーをオランダに持ち出させるなど「狡猾さ」さえ感じさせる。ガリレイの賞賛でも弾劾でもない「両義性の演劇」なのだ。
いま日本でも防衛省が大学に研究費をだす新制度が発足し、公募が締め切られ、ロボットやレーザー、化学物質研究など研究費(最大3000万円という)が支出される。日本物理学会は「学会が拒否するのは明白な軍事研究」というが、基礎研究との違いは明白でない。ブレヒトのこの戯曲は、まだ古典とはいえないと思う。なお訳者の岩淵達治氏は、2013年に85歳で亡くなった、哀悼を表したい。(岩波文庫、岩淵達治訳)