ブレヒト『肝っ玉おっ母とその子どもたち』

ブレヒトの劇(1)
ブレヒト『肝っ玉おっ母とその子どもたち』

         20世紀ドイツの劇作家ブレヒト第二次世界大戦開戦前に、ドイツ30年戦争を題材にした「反戦劇」である。「反戦」といっても、ブレヒトの「異化作用」の劇だから、戦争のなかでそれとともに生きる庶民を描くから、イデオロギーの劇ではない。
        軍隊に商品を売るため幌馬車で、新教軍とともに行動する2人の息子と1人の娘(聾唖者)をつれた「肝っ玉おっ母」の物語である。戦争がないときが「平和」だといい、戦争は人類に付随しているという戦争観は、反戦平和の甘さを見事に暴き出す。
       戦争が続くことにより商売がうまくいき生きていけるという庶民の現実主義をもつ「肝っ玉」は、戦争が終わることは生活苦につながる。戦争によって、3人の子どもを失ってしまう戦争被害者という側面も持つ「肝っ玉」は、両義性をもつた人物である。
     たとえが悪いが、基地や原発があることによって生活が潤う住民は、同時にそれによる被害者にもなるという両義性を持つ。「肝っ玉」は生き残っていくが、息子と障害者の娘は、その人間的な美徳のために、戦死したり処刑されたり、自己犠牲になったりする。ブレヒトの逆説だ。
    料理人という登場人物が歌う誠実や、無私や、正直さ、勇敢さが、命を落としていく「戦争」の逆説がある。「羨ましいよ、誠実でない奴が」。世話になっている農家に旧教軍が押し入り、町を不意打ちしようとする。障害者の娘は屋根に上り、太鼓をたたいて町の人々に気づかせようとして、射殺される。
    この最後のシーンは、ブレヒトの「同化による浄化作用」という古典劇に批判的な視点に反しているが、「劇的効果」を挙げているのも逆説的だ。
   戦争が、「肝っ玉おっ母」の性格をつくりあげているが、それは同時に権力者、戦争指導者、下士官にいたる「戦争機械」の、小さな庶民によるコピーでもある。後方支援も戦争だし、犠牲はさけられない。肝っ玉に比べれば、軍産複合体の大企業である「死の商人」の悪は、もっと大きいだろう。(岩波文庫、岩淵達治訳)