酒井直樹『パックス・アメリカーナの終焉とひきこもり国民主義』

酒井直樹パックス・アメリカーナの終焉とひきこもり国民主義』(『思想』2015年7月号)
   衆院特別委員会で、安保関連法案が、7月15日強行採決された。安倍首相がアメリカ議会で約束したスケジュールで進んでいる。「戦後の超克」がいわれるが、はたしてそうか。雑誌『思想』7月号では、その特集を組んでいる。
   酒井氏は、戦後日本の両義性を鋭く抉り出している。酒井氏は、1952年以来の日本は建前上は独立国だが、軍事・外交などでは「合州国満州国」であり、いまもそうだという。戦後日本は、国民主義が植民地体制の道具となった大変重要な先例」であり、「日本国民はいつのまにか戦争の加害者から被害者の立場に身を置き換え、見事に合州国の植民地体制の共犯者」になったという。(磯前順一氏との「思想の言葉」から)。
   国民主義の成立が、アメリカの植民地体制に組み込まれて成立し、自己も新植民地(沖縄県がその象徴だ)でありながら、他国には植民地的支配を及ぼそうとする両義性が、「ポストコロニアル」だとすれば、この安保体制では「外部」に脱出できない「ひきこもり国民主義」という両義性の矛盾がでてくる。
   酒井氏が「ひきこもり国民主義」と名けた精神構造は、1990年代バブル崩壊以後、新たな国際秩序を構想するどころか、過去の高度成長と残存した帝国意識という「良き時代」の幻想に、仲間と「ひきこもろう」と「内」だけに通用する幻想にふける。これに協調・同調しないものは排除し(報道圧力発言など)ていくが、「外」の国際関係には「集団的空想の実践系」だから通用しないのである。
   戦後日本の脱植民地化は、冷戦期により、アメリカの「下請け帝国」になることによって、「自己閉鎖的で集団自己憐憫的状況認識」により、うやむやにされていった。いまものこる「歴史認識」問題は、「帝国の喪失と恥の体験」を忘却させていくというこの両義的精神構造に、根拠をもっている。
   だが、酒井氏は21世紀に「パックス・アメリカーナ」の終焉の時代に、安保関連法案は、「戦後の継続・拡大」であり、「戦後の超克」ではないだろうとみているようだ。アジア・中東と共生していくためには、自衛権よりも「自己憐憫の共同体」としての「ひきこもり国民主義」の「外部」にでることが重要になる。
   ひきこもりの「自衛権」を破り、「外部の他者」(それは自国内部にもある)との不可侵・不戦条約締結などが必要になる。東アジア・太平洋共同体を形成することが、憲法9条が目指す不戦同盟になる。日本は、米中の架け橋になるべき媒介者としての存在になるべきである。酒井論文は、そこを深い思考でえぐっていると思う。(岩波書店、『思想』2015年7月号)