クッツェー『恥辱』

クッツェー『恥辱』

南アフリカ生まれのノーベル賞作家クッツェーの傑作である。ポスト・アパルトヘイトの時代の南アフリカで、人種差別以後の残されたアフリカ人の憎しみと権利主張のなかで、斜陽の白人(西欧人)が、かつての支配―隷属を失い「恥辱」の状況で共存していくかを問い続ける。
バイロンワーズワースという西欧ロマン主義を研究するケープタウン大教授の「転落」で物語は始まる。ロマン的情念による奔放なセックスを好む教授が、教え子の女子学生を誘惑し、セクハラで告発される。
査問委員会で事実を認めるが、謝罪を拒む教授は、辞職に追い込まれる。教授の突然の審判は、カフカの「審判」を連想させる。セックスにおける支配が、坦々と描かれる。
教授(離婚している)は、一人娘が生活している田舎の農園に去っていく。そこでも災難が降りかかる。三人組の白人を憎むアフリカ人に強盗に入られ、教授は負傷し、娘はレイプされる。セクハラと対照的になっている。隣人のアフリカ人は、次第に娘も農園に浸食してきて、手に入れてしく。これも過去の白人支配の「審判」なのか。
教授は、近所の女獣医のところで働く。増殖する犬を安楽死させ、焼却する仕事である。ここにも人間の動物支配に対する審判が、寓話化されている。この小説の最後が、犬の安楽死させる手術室の場面でおわっているのが、象徴的である。
教授は、この農園でもバイロンと貴族夫人の恋を主題にしたオペラを書こうとしているが、娘はレイプされたアフリカ人の子を妊娠しながらも、ここが土着の地として、父親のオランダに帰る話に、耳を傾けないのである。恥辱のなかでも、共存していく道だ。
この教授は偏屈だが、西欧的価値観に固執しながら、娘の生き方を少しづつ理解していくことで、この小説は終わる。同じ南アの作家ゴーティマに比べると、クッツェーは非政治的な寓話化によって、アフリカにおけるポスト・植民地主義の時代を描いたともいえる。(集英社文庫鴻巣友季子訳)