芳川泰久『謎とき 失われた時を求めて』

芳川泰久『謎とき 失われた時を求めて

      仏文学者・芳川氏のプルースト失われた時を求めて』論である。20世紀の古典でもある長編小説を読み解くのは、なかなか難しい。多くのプルースト論もある。芳川氏は仏文学者らしく「無意志的想起」という記憶論の描写から、プルーストの深層に迫ろうとしている。力作だろう。
      この小説は、私は「物語」として読んでいる。だから世紀末フランスの風俗、上流社会の社交界ユダヤ人問題など面白く読む。シロウトの読みだから、恋愛小説としても面白いし、同性愛や幻滅物語でもあり、芸術家になる成長物語としても読む。だから専門家としての芳川氏の読みは、やはり深いと思った。
      芳川氏は、19世紀小説が、語られた内容をそのまま物語として読者に提供するバルザックやゾラの小説とは違い、語り手が物語を語っていることを自覚している新しい小説だという。語られた「窓枠」を見せる。20世紀小説のベケット、ログ・ブリエ、カミユ、クロード・シモンに影響を与えたという。
      プルーストでは「窓」が額縁になって見る場面が重要である。馬車や鉄道の窓からみることにより無意志的想起が生じるし、同性愛のシーンを窓から窃視する。「窓の文法」は。恋人になる少女とのめぐり合いにも重要な役割をなす。プルーストのモネ的な直接的印象主義の重層的な空間認識は、時間構造では、反知性の記憶の重層構造に反映されてくる。記憶のイメージ的重層性を、芳川氏は、ベルグソン哲学との相似として論じている。
      芳川氏は、プルースト文体を、「隠喩」の多用として論じていて面白い。異なるものを、イメージを重ね合わせる隠喩という手法が「失われた時を求めて」では全編に見られる。芳川氏は「隠喩的な錯視」という。空間と時間の隠喩的重なり合い、身体・物質と精神・心の重合は隠喩と同じだ。
      芳川氏は、「失われたアルベルチーヌ」編で、母親とのヴェネツィアに行くシーンを重要視し、自らもサンマルコ寺院の洗礼堂にまで飛ぶ。ここは面白かった。母がいかに壁画のマリア像と、隠喩=重層になっているかを確かめる。
      この小説の始めに、子供の「私」が一人寝を恐れ母のキスをねだり、涙で不在を嘆く場面がある。最後にヴェネツィアで母の死による不在がある。芳川氏が割愛したというフロイトラカンの、母の不在による「隠喩ゲーム」の発明を読みたかった。エディプスというのではなく、母の現存・不在のゲームが、この小説を書くことの円環つながると思うからだ。(新潮社・新潮選書)