円満宇二郎『ひねくれ古典「列子」を読む』

円満宇二郎『ひねくれ古典「列子」を読む』

      中国古代の思想「列子」は、孔子老子荘子墨子孫子などに比べると、あまり読まれていない。円満氏は、「列子」の逆説に満ちたひねくれた話の面白さを読み直そうとする。
     「列子」といえば、私は、幸田露伴の『「列子」を読む』(『露伴随筆集』岩波文庫)が思い浮かぶ。露伴は、紀元前4世紀に生きた列子を否定し、紀元1世紀の前漢時代の劉向が整理したというので、「列子」は偽書であるという否定論を、考証によって批判していく。
      「列子」が、文学者に好まれたのは、抽象的な理論をといたものでなく(勿論、老荘思想が基盤にある)ひねりのきいた小説の趣があるからである。石川淳は「おとしばなし列子」(『石川淳選集第四巻』岩波書店)で、あべこべの話を中心にして、落語風にまとめている、円満氏の本を読んでも、笑い話的、ユーモア小話が、列子に多いことがわかる。中島敦の『名人伝』(ちくま文学全集)も、列子の「不射の射」を基に書かれた名作である。
      円満氏が、小説の源流に位置づけているのもうなずける。列子の話から出たとされる四字熟語「杞憂」、「朝三暮四」、「不射の射」、「多岐亡羊」などの話は、いずれも面白い。価値判断や生き方は、相対的なもので、自意識にとらわれずに、無為自然に生きるという老荘思想が、円満氏のいうひねくれた奇妙なキャラクターの物語として語られていく。
      孔子のスクェアーな生き方に対して、孔子批判も散りばめられている。「逆説」により教条的な常識を逆転していく。ヒッピーのような自由と無為自然な楽しい生き方が述べられている。その自由な精神的余裕が、ユーモアな語りになる。
      私が面白かったのは、「力のない力持ちの話」や、「あべこべの話」「心臓相互移植の話」。さらに奇想天外ないまでいえばロボットの登場と、ロボットが君主の愛妾にウインクすことで起こるてんやわんやの話などである。(新潮選書)