桑野隆『バフチン』

桑野隆『バフチン

      1920−30年代にロシア(ソ連)で活躍した言語学、文芸理論のバフチンは、80年代に再評価された。桑野氏のこの本も87年に出版されているが、今読んでもその全体像に肉薄している。
      バフチンといえば、ドストエスキーやラブレーの小説を、批評理論による再読により、「対話」と「解放の民衆的笑いの重視としてを打ち出したことで知られる。小説言語に、多声の対話がそれぞれ独自性をもち衝突し対話する「ポリフォニー論」を重視し、作者の単一の声で統一された「モノローグ論」の小説と区別した。トルストイロマン主義はモノローグ的だという。
      桑野氏は、ロシア前衛主義とのかかわりや、スターリン時代の社会主義リアリズムのなかで、バフチンの考えがいかに形成されたかを丹念に追っている。とくに初期バフチンの社会的場で生成する記号学は、バフチンが他者との「対話」という相互性によって記号学をいかに論じていったかがよくわかる。同一性の記号の再認でなく、また反復をする不変世界でなく、絶え間なく意味生成を行う未完成の記号世界である。ソシュールチョムスキーとは異なる意味生成と対話の世界である。
      対話的能動性による「了解」の記号世界の重視を、桑野氏は論じている。そこから民衆的な広場における笑い・笑われる相互交通のカーニバル的転倒と、解放の小説論が出てくる。否定一辺倒の「風刺」でなく、孤独なユーモアや皮肉ではない「解放の笑い」の小説の重視は、ラブレーの小説論として結実する。権威や生真面目な秩序、自明な日常性を笑いとばす転倒や格下げの笑い、相互交流の笑い、思いがけない隣接、賞賛と罵倒の両面性などが、ラブレー論では「グロテスク・リアリズム」とし現れると、桑野氏は紹介している。
      バフチンの「対話」は、つねに逆転の可能性を秘めたスリルある相互関係であり、この世の現象を転倒させるカーニバル的祝祭の場だと、桑野氏は指摘している。バフチンは対話、交通、出来事、生成、場、記号、発話、多言語を重んじ、さらに桑野氏はクリステヴァのテクスト相互連関性も付け加えられるという。20世紀批評理論としてバフチンは再考の余地がある。(岩波書店