穂村弘『短歌の友人』

穂村弘『短歌の友人』

  歌人・穂村氏の現代短歌論で、刺激的著書である。近代、戦後、ポスト戦後の短歌を貫通して考えながら、さらに今のネット短歌まで視野に入れている。
例えば「口語短歌の現在」では、「想い」と「うた」の間にレベル差がないフラットな歌を、穂村氏は「棒立ちの歌」という。今橋愛氏「たくさんのおんなのひとがいるなかで わたしをみつけてくれてありがとう」をあげ、90年代以降、世界観の素朴化や自己意識のフラット化が、修辞レベルでの武装解除を呼んだと見る。
バブル期の時代状況から生まれた俵万智氏の口語短歌には、「想い」と「うた」には一致があり、伝統短歌の句またがり、対句、序詞、体言止め、比喩など修辞があり、口語と文語のせめぎあいがあったという。それは加藤治郎氏の短歌まで見られる。
だがいまや、意識的に短歌枠組みへの破調も現れている。それは前衛短歌の塚本邦雄氏から発して入るが、状況は違う。穂村氏は、短歌の「場」が、インターネット世代のメディア環境の変化による「場」のオープン化だと述べている。
「リアリティの変容」の穂村氏の指摘も面白い。現実との違和感を小さな具体的なもので表現する。「迷子化と他者の希求」、「意識の機械化・サイボーグ化」などで分析し、いかに前衛短歌と離れてきたかを見る。飯田有子氏の歌が取り上げられている。
「前衛短歌から現代短歌へ」も示唆に富む。塚本氏の幻想が現実化してしまう現代というのは、鋭い見方をである。短歌における「私」の革新も、「私」の虚構性導入、女性歌人の「ぼく」「おれ」の一人称短歌など議論されてきた。穂村氏は、その二面性の意識化とともに「生のかけがえなさ」と「敬虔な判断停止」の間の切断の必要性を、高野公彦氏の歌で暗示している。
歌人論も面白い。寺山修司氏の歌に「一」が多いのに着目し虚構の名手だから「一」という数詞にこだわり孤独だったという。馬場あき子氏の歌を「覚醒者の孤独」と位置づけ、同時に素直な感情移入による突き抜けた透明感と見る。小島ゆかり氏の歌を「目鼻口の喪失」「頭の巨大化」「われの消失」「主客の二重性」から論じるのは、秀逸だと思った。(河出文庫