森本あんり『反知性主義』

森本あんり『反知性主義
いま日本でも、反知性主義という言葉がよく使われる。森本氏は、アメリカのキリスト教史における信仰復興運動(リバイバリズム)の歴史を辿りながら、「熱病」としての反知性主義を辿っている。
ピューリタンが建国したアメリカは、「セクト」としての信仰復興運動が、何回も大衆運動でわき起こっている。森本氏は、この運動がアメリカの反知性主義の原点としている。それは現代のテレビ伝道者まで繋がる。アメリカ的「新宗教」なのかもしれない。その主導者18世紀のホイットフィールドから、フィニー、ムーディ、さらに20世紀のサンデーまでを描き、アメリカ的なキリスト教の「土着化」が良くわかる。
こうした運動は、反ハーバート大学、プリンストン大学などの高学歴の権威と結びついた特権的知識階級に対する反動が、信仰という原理主義により生まれているという。その基盤には、平等主義的な「知的民主主義」の欲求があり、伝道のビジネス化による「現世利益」もある。それが過激になると、反共ナショナリズムの知識人狩りだつた50年代の「マッカーシズム」に行き着く。
森本氏は、「自然と知性の融合」として、エマソンやソローを反知性主義としてとらえている。概念的なハーバート大学の知性主義や、書物文献主義のヨーロッパ的知性の批判確かに強いが、反知性主義と見ていいかは疑問である。「超知性主義」といえる。
私は、アメリカ哲学のプラグマティズムも根底にこそ「反知性主義」のイデオロギーがあると思ってしまう。ジェームスの暫定的。相対的・多様な知性観、行動主義で、利益・効用による知性道具観などは、洗練された「反知性主義」なのではなかろうか。信念・信仰の検証は、知性的だが。
知的専門家が権力と癒着し、原発安全を伝道していた日本風土には「高学歴=知的特権階層」の社会組織への市民の不信も強い、アメリカのような宗教ではない形で、反知性主義はどう出てくるのだろうか。(新潮社・新潮選書)