鉄野昌也『大伴家持』

鉄野昌弘大伴家持

  「春の野に霞たなびきうら悲し この夕影に鴬鳴くも」
  「海行ゆかば 水漬く屍 山行かば 草むす屍 大君の 辺にこそ死なめ」
   家持は二重性がある。「春の野の」歌のように、孤独な個の憂いを秘めた「近代的」憂愁の歌と、「海行ゆかば」のように、大伴氏の氏族の一員として、天皇の官僚としての姿である。古代の森鴎外とでもいえようか。
   藤原家支配におされ、斜陽化していく大伴氏として、再三にわたり陰謀に巻き込まれ、左遷され、死後には藤原種継暗殺事件官位を剥奪されている。鉄野氏によれば、759年左遷された因幡国庁で詠った「新しき年の初めの初春の 今日降る雪のいや重け吉事」以来、785年死去するまで「詠わない家持」だったという。なにがあったのか。
   大伴氏の政争が激しくなったのか。藤原仲麻呂の乱や、道鏡事件、そして桓武天皇即位という激動時代で、斜陽化する大伴氏の「滅びの歌」は詠えなかったのか。『万葉集』の終焉は、家持によってもたらせられたといえよう。
   鉄野氏の本は、大正期という近代の成熟期に折口信夫らが、家持の歌を発見したのは、日本古代の成熟期の天平文化があったからと指摘している。天平文化は、唐の影響で、写実的であるとともに、高度に繊細だというのである。正倉院収蔵物に匹敵する。
   自己の氏族の滅びを、自らの内面を深くのぞき込んで詠う歌は、家持が「近代的感傷」に訴える表現をもたらしたのかもしれない。 家持の良い感傷的抒情歌は、越中因幡など、地方に左遷されたとき作られている。
   私は『万葉集』巻19末の「絶勝三首」が好きだ。亡妻の挽歌も素敵だ。
「我がやどのいささ群竹 吹く風の音のかそけきこの夕べかも」
「防人の歌」を集め万葉集に収録したのは、家持の密かに仕掛けた反抗だったのかもしれない。選者としての大伴家持の名は、、死後官位剥奪で消されたのかもしれない。(創元社