大倉隆二『宮本武蔵』

大倉隆二宮本武蔵

  宮本武蔵のイメージは吉川英治の小説や.大河ドラマなどで創られている。だが、信頼出来る史料や文献が限られ、吉川も江戸時代に肥後で書かれた伝記「二天記」をもとにしていて、大衆芸能で虚構化されたものである。「忠臣蔵」に似ている。
  大倉氏は、水墨画の名手といわれる武蔵筆の書画は本物かという疑問から出発し、武蔵伝に依拠しない伝記を探究している。   以外に史料は少ない。大倉氏は、江戸時代伝記の基になった「小倉碑文」の虚構性の成立事情と虚構性を明らかにし、『五輪書』は本物と見るが、『兵法三十五箇条』など兵法書は、武蔵に仮託された偽書の可能性が高いと見る。
  大倉氏の実証によると、13歳から29歳までの武者修行時代は不明な点が多く、吉岡一門の決闘や巌流島の決闘は「小倉碑文」以来虚構があったといい、真相は不明だとも見る。関ヶ原合戦は東軍・黒田如水勢とし加わり、大阪夏の陣も徳川方の水野軍、島原の乱に出陣したが、武蔵には軍師や兵法家の実績はなかった。
   また二刀流で有名だが、武蔵が二刀流で闘った記録はない。『五輪書』でも、両手を自在に使えるための練習方法としか書かれていない。『五輪書』の原本は焼失し、弟子の捏造説もあった、だが、平成15年書写や伝来経緯が辿れる九州大学所蔵本発見で、新しい段階に入ったと大倉氏はいう。
   18世紀江戸期は戦争が無い「平和国家」になり、戦争も鉄砲など火器重視の時代であり、弟子などは剣道や兵法斜陽のなか、武士道修行のイデオロギーを武蔵に仮託し顕彰しようとしたのではなかろうか。山本常朝の『葉隠』に似ている。
   大倉氏は、武蔵の「剣禅画一如」「武人画家」というイメージにも批判的だ。一つには禅でなく(いま沢庵和尚の交流は否定的)、林羅山朱子学イデオロギーをみるのだが、落款や印章を詳細に分析して贋作が多いとしている。水墨画は、武蔵晩年の趣味として自由に描いた余技だったとも思える。
   「ゆっくりとした運筆による頼りなげな描線と未熟さを残す水墨画の醸し出す部妙な味わいは、剣術家というより病気がちな晩年の武蔵を表している」と大倉氏は指摘している。英雄でなく、当時の武士の姿が、この本で浮かび上がってくる。(吉川弘文館