ウォー『ピンフォールドの試練』

イーヴリン・ウォーの小説を読む②
イーヴリン・ウォーピンフォールドの試練』

   ウォーの小説は、風刺と諧謔に満ちている。読んでいるうちに引き込まれ、苦悩と闘っているのに、笑ってしまう。この小説は、50歳の中年小説家が、転地療養のためセイロンまでの船旅に出るのだが、出船とともに幻聴が聞こえだし、小説家へのヘイトスピーチというべきものに襲われる。
   様々な陰謀や、さらに小説家への襲撃計画や、恋愛の誘惑までも企てられてくる。船長もグルになり、船員やインド人給仕へのいじめまで聞こえてくる。この幻聴は、電波の箱からか、無線か、はたまた睡眠薬かわからない。精神の統合失調症の症状ともいえる。
   自己の分身が分裂して、その分身ともう一人の自己が、悪戦苦闘して対抗して克服していく物語である。とすれば、アラン・ポーやスティーブンソンの分身小説に似通っていると思える。だが、20世紀の小説家ウォーは、それを風刺やユーモアで距離を置いて処理していく。
   小説に対する「反小説」なのだ。小説という自己が増殖する仮構が、自己に反抗してくる生きざまをとるとき、創造者の小説家はどうするのか。幻聴、幻覚という仮構が、現実と皮膜の薄い膜の境界線に現れて、暴れ出すときの矛盾した可笑しさを、ウォーのこの小説は描いている。
  現実の小説家よりも、もっと生き生きし、魅力的であり、悪党であっても、悪女であっても、幻想のほうが生きている場合の試練が描かれている。小説とは、なんぞやが問われている。
  この幻聴に出てくる登場人物の差別発言や、悪口雑言の面白さは、人間の中にある陰謀好きや、陰口や、いじめ、おとしめの快感を、見事に風刺しているユーモアがある。笑ってしまう。憎しみにユーモアで対抗していく知恵も、ウォーは描いているのではないか。仮構は遊びであり、真剣になったら負けである。遊びの笑いによる対抗が、病を癒す。吉田健一の翻訳は、名訳である。(白水社吉田健一訳)